光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の偉業 No.8 炎王光2

出典『観照』第14号 昭和6年8月/『観照』第15号 昭和6年9月 谷 安三師 速記

「炎王光」(つづき)

先ず思惑の方からいえばこれは動物に共通の生理衝動であって、この肉の生命を持続する為に自己を保護する様に天から与えられたものである。
貪る欲がある故に飲み食いする。それは生きんとする欲である。
瞋る気があるが故に他に食い殺されずに自己の命を完うしてゆく。
痴とは愚痴である。人間は現在自分が生きているが、生まれる以前はどうであったか、死んだ後はどうなるか。そんな事は少しも解らない。それはまた自覚して人間の意義を悟らないからである。

慢は自惚れで、どんな人間でも自分にもどこか取り柄があると思っている。自分はつまらなぬ人間だけれども何か好いところがあると思っている。もしそれがなかったならば死ぬより外には仕方がない。そうした肉体に囚われた生まれながらの惑それが思惑である。この思惑は本来善とも悪とも名づけられぬものである。これが意識的になったところが見惑である。

見惑。この見惑となるとこれは知識に惑わされたものである。前のは生理的自然的のもので誰でもが持っている所のものであるが、この見惑は知識あるものの意識的の惑である。霊魂とは何ぞや、と言う風に考えて、その結果、かえって理に惑って誤った見解に陥る。それを見惑というのである。それ故に無智なものにはこの見惑というものはないわけである。智恵がかえって禍をなすのである。霊魂は何処にあるか、心の本体は何であるかという様な事を考えない人間には随ってそれに対する観念もないからである。

身見。身見とは霊魂は身体を離れてはあり得ないと見る見解、この体それ自体が霊魂であって死んでしまえば亡くなってしまうものである。我々の身体は四百兆の細胞から成っているが、その一つ一つが生命であり霊魂である。アミーバの様に簡単なものや人類のように複雑なものの相違はあるが、その細胞には変わりがないのでその一つ一つが生命で、それが相集まって体を為すに過ぎないのである。精子も卵子もその細胞に何の差異もないものである。これは無論誤った見解である。

辺見。これは一方に辺した見解をいうのである。この辺見に断と常とがある。
断見とはこの身も霊魂も生まれた時に集まって来るもので死んだらなくなって散じてしまうものだ。決して永久不滅の霊魂なんぞのあるわけではなく集散生滅常なきものである。とそういう風に無常に辺した見方である。しかるに真実霊魂なるものはそんな風になくなったり出来たりするものではないのである。

また常見とはすべてを固定したものと見る見解である。この世界は犬は犬、人間は人間と定まっていて、どこまで行っても変わらないものであると見る。これも誤りである。もし先天的に定まっていて動きがとれぬものならばいかに修業を積んでも何の向上の道もない訳である。しかし、霊魂は(すなわちこの世界は)異熟性と言って、因に随ってどこまでも変わって行くものなのである。ゆえに吾々も向上の望みがあるのである。

邪見。因果撥無といって因果の法則を認めないのである。善因善果・悪因悪果なってそんな馬鹿な事があるものか。世の中は利巧に立ち回ったものが得をするのである。聖人の教えや宗教家の説く所のもの、あれは皆偽りである。愚民を欺く手段であると見る。正智見の反対で真理をそのままに見ないところから起こる誤りである。

禁見。戒禁執見。形式に囚われた見解である。基教(キリスト教)では神の子の血と肉とに依って浄められる為にといって、パンと葡萄酒とを与えたそれを形式に囚われてそのパンと葡萄酒を飲まなければ救われる事の出来ないとこう形式に囚われるのである。また戒にしてもその形式を絶対的なものと見るのがこの誤った見解である。形式ばかりを見てその中に含む真理を忘却するのが禁見すなわち戒禁執見である。支那には事件外道。事鶏外道と言って牛や鶏に事えるものがいる。それはある時、山にいて牛の魂が天に昇るのを見て牛は聖なるものと感じたのである。それは前生の業報に因って天上に生まれたので牛が貴いのでない。

取見。これは誤った先入主観に囚われて、その間違いをどこまでも本当だと信じてしまうのである。この先入主観というものは非常に恐ろしいもので、いくら良い田地でも悪い種子を蒔けば悪い草が生える。よい田地程雑草が沢山生えるのである。雑草の種子は自分で蒔いたつもりはなくとも外から勝手に飛んでくるのである。それを捨てておけば終に悪い実を結んでしまうのである。実を結んでしまうとその草は枯れてもまたその種から悪い草が生える。それであるからまだ実を結ばないうちに抜き取ってしまわねばならぬ。

この見惑とは道理に明かと思っている人がかえって陥る誤りである。智者にして初めて間違うのである。昔の人は学問が足らなかったが故に解らなかったままで済んだが、今の人は学問が過ぎる為にかえって誤りに陥る。学問に捉われてしまって反対に自分の本当の智慧が働かなくなる。自分の誤っている事には気付かずに、世の中はこう言うものだといって誤魔化している。

そういう風にすべて誤った考えを惑という。その惑が因となって業を生み業によって苦を生む。吾々は惑のある限り業苦は遁れる事はできないのである。その惑を弥陀の光明を被って段々と焼き尽くして行くと本来の自性清浄心である。ただ惑という悪いものがくっついているが故に、業苦を受け静止を立つする事ができないのである。その垢を炎王光のよって取り除いていただくのである。

我々の魂には生まれながらにして持っている三つの障りがある。

三障
業 障。過去
罪 障。現在
煩悩障。未来

如来の光明は遍く十方法界を照らしている。しかるになぜに吾々はその光明中にいながら解らないのか。なぜにその光明を拝む事ができないかと言えば、我々が生まれながらにして持っているこの三つの障子を隔てて見るからである。この障りに黒。黄。白の三段がある。

黒。戸を閉じている時代(真暗)
黄。何となく感じられる(戸の隙間から幽かに光がさし込んできた時)
白。障子を隔てて見る時代(相似)

この黒黄白を過ぎて戸障子をすっかり開け放した時、判然と光明を拝む。初めは黒雲が深く立ち籠めて、どこを月とも見わけがつかなくても、自分の罪障を懺悔して一心に弥陀の光を念じたならば、終にその黒雲は取り除けられて、追々とハッキリ光明を拝む事が出来る様になってくる。自性清浄が追々と磨き出されてくるのである。その垢を取り除いて下さるのが如来炎王光である。

(炎王光完)

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