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聖者の偉業

聖者の偉業 No.11 聖者との問答

出典『光明」第12号 大正12年3月『観照』第39号 昭和8年12月 谷 安三師 速記

聖者との問答

『観照』編集者の付記
本稿は故谷安三聖子が生前消息された中の一節であります。本年(昭和8年)七回忌に相当し同志を偲ぶよすがに掲載致しました。

私(谷)―
法身仏が無始無終(始めも無く終わりも無い)である様に、報身仏も無始無終の様に存じます。法蔵菩薩の願行に報いて十劫以前に現れました報身仏は迹仏であって(報身の)本仏はやはり無始無終であると信じますが、その本仏の報身とはいかなるものでございましょうか。
上人―
それは報身にも応身にも本仏と迹仏がある。人間の目に感じられる様な報身仏が現れましたのは十劫の前であるけれども、それ以前に法身の無始と同時に、報身仏というものはましましたのである。我々人間がこうしてあるのもその本がある故である。人類がこんな体に現るる前に既に人類になるもとがあったが故に、今現にこうして現れているのであって、その本がなければ、こうして現れるはずがないのである。
私―
それでは人類に見える様な私が出来たのは十劫以前であって、それになる本が無始以来存在したのでございましょうか。
上人―
いや、そうではない、体のある所には必ず相がある。報身の形は無始以来存在する者である。南無阿弥陀仏。
私案ずらく、「人類の存在のない時、即ち未だ生物が現れざる人類を救う弥陀即ち人類の感見すべき弥陀のあるべき道理がない。人類あって初めて人類を救う弥陀、即ち方便法身は現れ給いしものである。けれどもその本仏は依然として法身と同時に存在するわけである。本仏あるが故にまた仏あり。ややともすれば法身は本仏にして報身は迹仏なりと想うけれども報身に本迹二身ましますのである」
上人―
同様に応身においてもしかりである。体相用は一体で不可離である故に応身の本仏も無始である。
私―
法身は遍一切処の絶対人格であって、その絶対人格を個体人格に表現したものが報身である様に存じます。
上人―
そういう風に観てもよい。また一切の万物を生み出すのは法身仏であって、それを光明摂取によって本に帰趣せしむるもの報身仏である。また一切を生みだしたのが法身であってその法身の生み出した世界に二面がある。一を浄界、即ち光明世界、一を闇黒の世界とす。その浄界を照らすのが報身仏である闇黒界を照らすのが応身仏である。心眼を開いて仏智見によって見るのが報身仏で迷いの凡夫が見る仏が応身仏である
私案ずらく、「かかる故に『法華経』に「我実にはあれども而も滅すというと」おおせられた所である。何故ならばもり応化身にして永久に存在する時は人は皆安心をして精進しなくなる。肉眼で拝む事の出来る仏まします故に心眼を開く必要を感じなくなる。それではならぬ故に「実にあれども而も滅すと云う」とおおせられたのである故に、密家(密教)では法身を本尊とし浄家(浄土教)では報身を法華では釈迦仏(応身)を本尊とするも一体の三面である故に不可離即一に帰すべきものである。

(大正9年9月2日)

昨夜のお話の一節

人類はアミーバの様な単細胞の生物から終に今日にまで発達して来たものである。しかし、もし本来人類になるべき性がなかったならばいかに永い間かかっても到底人類になる事は出来ないはずである。

しかるにまた、一方から見て仏と我々人類との差よりも万倍にも当たる距離がある。けれども吾々がもしアミーバより人類に進んだ程の時間の万倍を不退転に進んで行ったならば仏になる事は事実である。我々は本来その性を持っているから、これ唯識の意見である。

しかも大乗仏教の立場はその長い時間を経て仏になり得る性を我々が持っているならば何らかの方法によって短時日にそれを成しとげ得らるる筈である。人間はアミーバ時代の単細胞動物時代より今日に至るまでの無限の長い階梯をただの十ヶ月間に母親の胎において繰り返している。それはなぜであるか。

我々が、人間に生れたが故である。人間の子になって人類の親の育てを被むったからである。そのごとく我々がもし仏の子になり、仏を親としてその親の育てを被むった時には、ちょうど母胎十ヶ月で無限の時間の階梯を繰り返す如くに短時間で成仏するのである。

これ大乗仏教の真髄
念仏門の黄金座
南無阿弥陀仏

(大正9年9月2日)

※編集室より

以上で谷安三師による聴書を終わります。来年号からは、「聖者の俤」と題して、弁栄聖者と直接お会いになった方々の思い出の記を、過去の機関誌から再録していきたいと思います。

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