光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.2 信後の感想 2

出典『ミオヤの光』創刊号 大正8年11月『縮刷版』一巻十一頁

信後の感想

中村 禅定

(NO.1から続き)

上人に拝謁して、仔細を申し述べたところが上人の仰せに、

当年東京在の松戸という町に教会を創立したからその所へ参って教会のために働いてはくれぬか

との御詞。私も自己の信ずる教会の許に働くのは本望であるから上人の御詞に随い、それより上人に随行して三条、長岡、柏崎、高崎等を経て6月13日松戸町へ着し、同18日、当教会の開筵式を挙行し、爾来、当教会に留守居をさしてもらっております。これ偏に如来のお引き合わせと上人の御高庇に依ることと深く感謝しております。

上人の御歌にも

   ここをぞとさやかに今は見えねども
   月の方にぞあこがれにける

私はいまだにみおやの温顔を拝することはできぬけれども何となく如来が懐かしく慕わしく恰もみおやの温かき慈悲の懐に抱かれておるような心持ちが致します。

私はこれまでは精神的孤児でありました。何ものにも頼るものはなかった。しかるに今は慈悲深きみおやの懐に抱かれておると思えば、百万の味方を得たよりも力強き感じがします。

淋しい時にもあなたを想えば慰めて下さる。
心に心配の発ったときにもあなたを念ずればやがて解決を付けて下さる。
不平の起こった時も不満の生じた時もみおやの慈悲に縋ればみな打ち消して下さる。

心に叶わぬことがあっても身に難儀なことが振りかぶってきてもみおやの光明中に生活しておる私だと思えばこれも前世の因縁か、またはみおやが私のために心を磨き身を錬るための御手まわしかと思えば却って有難く感じられます。身も心もすべてみおや任せの身であれば、みおやは決して決して私のために悪しくは取り謀っては下さらぬと信じておるからであります。

私はいまだ浄土の荘厳を感見することは出来ませんけれども、天を瞻ても地を見ても、山姿水態そのままが極楽の荘厳であるかの様に視られます。天地万物一つとして如来の御力と御恵みとに依らざれば存在することはできないのであるから、草一本でも虫一匹でも、みな如来のみ力とみ恵とに活かされているわけである。して見れば私共がこうして日々衣食しているのも、みな如来のみ力とみ恵とに依るのである。かくも広大なる恩寵を被り、みおやの慈愛深き光明中に在りながら、どうして不平を洩らし、不足をいうことができましょうか。

私は一人ですから近頃は自炊しておりますが、米三合に麦一合の割で御飯を炊き、一度は飯と汁、次にはお茶漬け、次には御粥、次には雑炊という順序にして食べておりますが、その美味しいこと。已然には二円三円の料理を食べても、とてもこんなに美味しくは感じなかった。なぜであろうか。その当時は二円なら二円、三円なら三円だけの価値しか認めなかった。しかるに、今はたとえお茶漬け一杯でも雑炊半膳でも粒粒辛苦老農の膏であるのみならず一粒一菜みな如来の広大なるみ恵がこもっておるのだと思えば、無限の価値を認めるからであります。

私は世の中に何も望みはありません。ただただ、この無限の悦びを一人にても多くの人にわかち与えて、共に共に御親の光明中に安く楽しく暮らさして頂きたいと思います。これより外に私の望みはありません。これが私の望みであります。

(完)

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