光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.5 故浅井法順師の追悼会に臨んで(抜粋)

※ひかり編集室より

この文は羽賀虎三郎氏の浅井法順上人追悼の文章ですが、弁栄上人との暖かなご縁が記されていましたので、抜粋して転載させていただきます。光友を増やして行く布教のコツが、この文にある「何となく有り難く」と思えてなりません。知識ではない、ぬくもりのような何か(何となく有り難きもの)を、如来様に頂き、それをローソクじゃらローソクへと火を伝えていくような伝え方、そこに光明主義伝道の極意あるものと痛感いたします。

出典『ミオヤの光』一巻七号十四頁 『縮刷版』一巻三十七頁

故浅井法順師の追悼会に臨んで(抜粋)

羽賀虎三郎

私は宗旨違いのために長岡市に住みながらほとんど浅井師のあることを知らぬ位でありました。偶々愚息が大正5年、病にかかりその当時相州(現在の神奈川県)葉山に療養しておりましたが、段々病は篤くなり、今半年の生は保つまいという医師より、所謂死の宣告を受けたのでありました。

乃で私は生者必滅は世の習いだから仕方はないが、せめて精神に慰安を与えて終わらせたいと思いまして、これには何か良法なきかと種々に心を砕きましたが、これには何うしても宗教に依るより外はないと考えました。しかし未だ二十歳前後の青年に対して、

お前はとても癒らぬから仏を信ぜよ。
とか、
お念仏を称えよ。
などということは、かえって気落ちをさせる様なものである。何うしたものかと実は困って居りました。しかるに求むるものには与えらるるの道理にや、その後、両三日を経て若菜先生のお宅へ参りました。ところが先生頻りに阿弥陀様の画像に向かって拝んでおります。当時若菜先生も私も信仰などは更に解せぬ時代でありましたから、私は異様に感じまして、

貴下はどうして仏様を拝む気になりましたか。
と聞きました所が先生のいわく、

実は未だ信仰という程でもないが、この程、弁栄上人という高徳のお説教を聞きましたけれどもその意味がよく解らぬ。しかし、何となく有難く感じたので5日間参詣しました。そこで上人に拝謁し斯くお説教を拝聴していても自分の至らぬ為か上人のお説がよく了解されませぬ。「どうしたならば解りましょうか」と御尋ねしましたら、上人の仰せられるるに、「仏様を画いて上げるから、これに向かって朝夕御念仏申していなさい。そうすれば自然と如来の大慈悲に触れて解るようになります」と仰せられましたから私はこうして念仏を申しております。

との御話でありました。してその仏像を拝するに如何にも慈悲円満の相が溢れております。私は非常に悦びこの仏様を愚息の方へ送って床に掛け置く時は自然に信仰心も崩発し心に慰安を与えて下さるだろうと信じ、さっそく浅井上人に面会し、弁栄上人のお染筆を願いました所が早速お画き下さいました。私はそれを持参して葉山に至り愚息に示した所が不思議にも非常に悦びまして已来これを朝夕拝み、かつお念仏申しておりましたが遂に信仰の人となりまして意想外でありました。

愚息は大正6年7月13日亡くなりましたが臨終には心に何の煩いもなく只々仏の御救いを悦ぶのほか、何の望みもなく、眠るが如く正念にして往生を遂ました。随って肉体に毫も苦痛を感ぜず安穏に終わりました。それを見ておった両親の喜びはいかばかり、送葬の際にも零す涙は憂愁の涙でなく歓喜の涙でありました。

さて喉元過ぐれば熱さ忘るるの譬えに漏れず、元仏教の真味を解せざる私は仏のお慈悲も殆ど打ち忘れておりました。しかるにその年十月また、若菜先生のいわるるに、法蔵寺様から弁栄上人の著された『宗祖の皮髄』という本を頂きましたが読んで見ても解らぬから、

法蔵寺さん(浅井上人)から講義してもらおうではないか。

との相談を受けましたから早速同意して、それより両人とも十六日間毎夜引き続き、二時間づつ講釈して頂きました。ここにおいて初めて人生と宗教とは密接の関係にあるものなることを染々感じました。

孔子が朝に道を聞いて夕に死すとも可なりと叫ばれたのもここだと感じた。苟も生を人類に受け、人たるの道も弁えず、人生の帰趣する処も解せざれば動物と異なる所はないと自覚しました。

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