光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.8 さえられぬ光に遇いて 2

さえられぬ光に遇いて 2

熊野 好月

また一面の私の煩悶も、堪え難いものでありました。それは長ずるにしたがって、世の中の色々な矛盾に気がついたのと、力もない身が己れを偽り他をあざむいて、日々ごまかしの生活をしていること、これが私には殆んど病気づくほどの苦しみでした。生徒の時、神様のように思いあがめていた先生方の、内面の噂をきいたり、また立派な紳士として尊敬されていた人が悪い事をして牢に入れられるなどの報道をきいて、幻滅の悲哀を感じ、裏面の醜くさに恐れおののいたのであります。学校できいた修身のお話も、今は何の権威もないものとなって仕舞いました。一体、絶対の善というものがどこにあるのでしょうか。たとえば慈善といっても、ただ名誉心からで、他面には乞食根性を増長させるにしか役立たぬではないか。堪忍の徳がいいといっても、自分の自然の心の発露を、おさえ引きゆがめているに過ぎない。即ち、自己をいつわるのではないか。世の人はこうしておけば得が必ずかえって来るからしておこうだの、損だから捨てておこうなど、善行を損得から割り出してやっている。しかも平気でそれを口にしているではないか。かく考えて来ます時、処生の規範として教えられた、かくあるべし、べからず式の道徳観は砂上の家の様に崩れて仕舞って、身を律すべき何もなくなって仕舞いました。ああ、今思ってもぞっとするような恐ろしい淵に私は臨んでいたのであります。堕落の淵に落ち込むのをわずかに支えていてくれたのは、父によって幼時からたたき込まれていた儒教の精神によってでありました。

父が「将来万一の時の備えに」と、教師となる資格をつけておいてくれた、それが早速に一家を荷負うべく役立ちました。然し使命を感じてでなくただ生活の為に教職につく、これ程大きな悩みはありませんでした。純真無垢な生徒を我が生計の為に喰いものにしている。慕いよるいたいけな者の前に幾度か身を切らるる思いをした事でしょう。力もない自分、すでに身を律すべき規範をも失って、人生の帰趨する所を知らぬ身が、大胆にもこの人達を何処へ導こうとするのであるか、職をやめたい、然し家族のものの生計をどうするか、こうして引きずられてゆく身の苦しさ、実に屠所にひかるる羊の思い、血の涙を流さんばかりの悩みでありました。生きるに生きられず、死ぬに死なれぬ私は、さながら生ける屍でありました。

ある人はいいました「教ベンをとるのにそんな馬鹿げた考えをもつ必要はない、要するに知識技能の切売りに過ぎぬのだ」と。然し私の持つ知識技能そのものが自らの庫から出るものでなく借り物であるをいかんせん、また、そうであったとしても私にはその人の考えは少なくとも偽瞞である。全人的に生きなければ、そこに何の生きる意義があろう。

鐘なりぬ教室に入りぬ鐘なりぬ
教室を出でぬかくて暮れゆく

と、ある人が歌ったそうですが要するにそれは人でなくて生ける機械である。それでは私の本心が満足しないのであります。

心の空虚につけ入る誘惑の魔の手は数え切れぬ程身辺に迫りました。それを逃れる為には、いきおい幾重にも幾重にも警戒の甲冑をよろうべく余儀なくされました。

何の自信もなく素養もない私は教職にいる以上いかにも一かど分別のある、出来上がったもののように装い、赤裸々の自分を曝け出したならば恐らく直に免職されるであろう。いつかは、ばけの皮が表われるであろうとの恐れに、日々内心おづおづとしていたのでありました。かく幾重にも仮面と甲胄に己れを包みかくして、無邪気な温かいのびのびとした心が段々うせゆき、つめたい頑なな心にかたまっていく事を自分ながら悲しゅうございました。

父母も友も我師もよも知らじ
身もよもあらずなやむ我をば (その当時の歌)

ここに大悲招喚のみ声がなりひびいておったのに愚かにも耳しいた私には、まだ聞こゆべくもなかったのであります。

光を求めて

精神的にも物質的にも行き詰りの極に達しました私は、恰も水に溺れんとする者が、藁すべをもつかむ、それにも似た心でありました。物にたよるべき何もない事を知った、よるべなき小舟や浮草のそれのような私は、今は信仰にたよるより外はないと思いつきました。先ず生徒の時から愛唱していた讃美歌に引き寄せられてキリスト教の門をたたいてみようという気になり、私の足は先ず名高い某宣教師のもとに向かい、生きゆく道をたずねました。

すると某師はいきなり「神の御前にひざまずいて懴悔しお祈りをなさい」と申されました。しかし私は貧乏はしても罪を犯した覚えはないとかたく信じて居ましたので、心にもないただ言葉だけのお祈りはどうしても出来ませんでした。

宣教師は代わって「神よこの罪人を許し給え」と祈って下さいました。心ねじけた私は罪人扱いにされると内心憤りさえ覚えました。その時の思い上がった愚かさを穴にも入りたい程恥ずかしゅう思います。今もなお罪業のふかきに泣く身でありますのに、当時のこんなごうまんな心を持っていた私に、どうして法の光のさしこむすきまがありましょう。ここに満足を得なかった私は、次に名ある教会に牧師を訪ねました。そこでは聖書の山上の垂訓を講義して下さいましたが、私には何だか「べからず式」の道徳律をきかされるように思われました。心の重荷を軽くしてほしさに道を求める私にはかく聞かされて信仰も亦重荷を背負わされるのかと感ぜられました。

牧師夫人は親しげに、以前からの信者ででもあるかのようにやさしく「今度の日曜日に教会の皆さんとピクニックを致しますから御一所に参りましょうね」といって下さいました。心ひがんだ頑なな私はまたしても心の扉を閉ざして仕舞いました。まだ信じても居ないものが信者のような顔をせねばならぬ偽りを、信仰にだけは持ちたくないのでした。御親切なこのおさそいに、遊ぶひまもなく、生活に追われている今の境遇を悲しくさえ思いました。

この人達はよい着物を着けて呑気に遠足などなさる事が出来るのだ。私には内職の柔道衣刺しが、肩掛の縁編み、羽織の紐組が待っている。家の為に犠牲になろうと決心した身にはよい着物を着けたいとも思いませんでしたけれど、来る日も来る日も余裕のない生活のために、楽しかるべき青春の若さをのびやかに味わうこともなく年を重ねて仕舞うのかと思う時、さすがに淋しさの思いに沈みました。此処にも亦私のたましいの安息所を見出す事が出来ませんでした。

斯くも悩みの日を続けた私は難しいとされている、仏教の門を叩いてみようと思いたち、かねてからさそってくれる信心家の叔母に伴われて、真宗の説教所にいきました。若い者は私一人です。堂に満ちた老人達に対してお説教師は「お信心戴けば死んだら極楽参りは間違いない、有難い事ではないか、なあお婆さん」と申されると、満堂の善男善女、異口同音に「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と申します。私は馬鹿らしくさえなりました。今自分は死んでから先の事など考える暇がない。今日唯今、如何にして生くべきかと苦しんでいるのだと思うとき、もう二度と聞く気になれなかったのであります。パンを求める者に石をもって報いられたように感じた私はただ一筋のすがりの綱であった筈の宗教にも失望して仕舞いました。「こんどこそは」との一縷の希望を裏切られたやる瀬なさは光なき真暗闇のどん底に突き落とされたようで、すっかりこりて仕舞い、今は矢張り自分をたよるより外はないと、またしても頑なな甲らのなかに己を隠して、弱みを見せまいと、気張っていました。然し、その苦しさは何にたとえようもありませぬ。

丁度その夏頃であります。同郷のお医者で兄や父もお世話になっていた恒村先生の奥様が、お子様をなくされた悲歎から、浄土宗の五重というものをうける事によって救われなさいまして、私にもしきりに、寺参りをおすすめ下さいました。幾度か失望の苦杯を重ねておる私は容易に参る心が起こりませんでしたが、余りの御熱心さにお義理から寺参りでなくて、毎夏催されている東山の朝起会に参加する気持で、早朝知恩院に行ったのでありました。

霊のあけぼの

時の輪番布教師は中川弘道師でありました。

説教に耳馴れぬ私には、お話の意味ははっきり解りませんでしたが、恒村夫人に無理に連れられて、仕方なく奥の雪香殿で中川上人にお目にかかりました。度々失望の苦い経験に心ゆるさぬ頑固な沈黙の私を前に、中川師は淳々と光明主義の尊さを説かれました。「私は今現代の釈尊とあがめ、活き仏様と拝がんでいる尊い山崎弁栄上人を信ずるが故に、その御教えのままをふみ行っているだけです。あなたがキリスト教においでになろうとそれは御勝手ですが」と申されました。今までどの教えを聞いてもおしつけがましいのでありましたのに何を信じようと御勝手と突き離されてかえって心の中心から「ああ、一度その活き仏様ともいわれるお方にお目に掛って見たいなあ」と切に切に、思ったのであります。それは丁度ひもじい思いをしながらも、並べられた御馳走を毒ではないかと疑って、うっかり手をだすまいぞと気張っている者の前で、あなたはお嫌なら御勝手になさいとばかり、いかにも旨そうに食べられているような形で、もとより霊のかてに餓えて死に瀕している身にとって、どうしてそれを見て許りおられましょう。つい自分も手を出して見たくなったのであります。これぞ私がこの有難い御教えにつながれる不思議なおはからいの糸口でありました。ああすべては貴き御使いにまします。

(次号につづく)

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