光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.9 さえられぬ光に遇いて 3

さえられぬ光に遇いて 3

熊野 好月

その時いただきました『宗祖の皮髄』という弁栄上人のお著書を解らぬままに何となく惹きつけられて拝読致し、益々お目にかかりたい心が燃え立ちました。折から大阪府三島郡豊川村、笹川氏邸へ八月十一、二日御巡錫の由、中川上人からのお知らせでした。飛び立つ思いでありましたけれども、未知の所へ娘一人で行く事は許されぬきびしい家庭、折柄恒村夫人は別府へ転地療養中でありましたので、かねて『宗祖の皮髄』を通して弁栄上人のお徳を賞讃しておられました恒村先生に連れて行って下さいと切願致しました。

先生は「いや私はお目にかかるまい、兎角著書を通してその作者を慕い、わざわざあいにゆくが、会って見ると大低は失望するものだ、この本が有難いにつけ、私は遠くから尊敬して居る方がよい」と申されました。

先生と同じ失望の苦味を幾度か嘗めさせられた私ではありましたが、今どうにもならない切羽つまった行き詰りの時でありましたので、どうしてもお目にかかりたい、一人でも行きたいとついに父母をときおとし、その日夕方かえる約束でやっと許されたのでありました。

時は大正8年8月11日、実に聖者御入寂の前年でありました。鳴呼思えば大悲の御はからいの貴さよ! 私にこの逆境をお与え下さいませんでしたならば、うかうかとして道を求むる心も起らなかったでありましょう。ぐずぐずしておったならば、この遭い難き聖者に永遠にお目に掛る機会も無かったでありましょう。聖者ならではこの愚な罪障深き身はいつ救わるべくもなかったろうと思いますと、すべての御はからいが私一人の為になされた事であって実に至れり尽せりのお慈悲の現われであった。自分が家の犠牲になっていたと思う今までの心は間違っていたので、み親は世のすべてのものをあげて、私を目覚めしめんためはからわせ給い、兄も私のために犠牲になって下さったのだという事を、しみじみと感じ有難涙にくれるのであります。

拝しまつるだに御質素な御服装、御謙遜な態度、今まで嘗て見たこともない、洋々とたたえた大海のような和らぎと春の光に照らされるような温かさ、失礼な表現ではありますが丁度上蔟前の蚕とでもたとえたいような透き通った無我な御風ぼう、私は久しく親をたずねあぐんだ迷子が、ふとなつかしい慈母にめぐり合った様な、ただ一切を赤裸々に投げ出してワット泣き伏したいような心地、お目にかかった瞬間から言うに言われぬ心に溶かされて仕舞ったのであります。

御慈訓の数々はとうてい一口には言えませぬので次にその一端を述べさせて戴きたいと思います。私は大勢の信者の間にいだかれて、この一日が非常に長かったようでもあり、また夢のような思いで我を忘れ、大変短かったようにも思われました。

皆様が明日も御法話があるから泊って行けと申されました時、ハッと気が付いて我に帰りますど、はや夕方でありました。早く帰らねば父に叱られると思った瞬間に私は、ああ何という平和な光と喜びに満ちたこの雰囲気であろう、それに引きかえ我が家の淋しさ、暗さ、冷たさ、思えば暗の中で憬れ求めてやまなかったものはこれであった。この光であった。今や我が家にこの尊い光を導き入れるのは、げに私の責任であると、その時深く心に思い定めました。

さすがに長い夏の日も早や暮れて通い馴れぬ暗い田舎のたんぼ路を淋しさ恐しさも打ち忘れ、喜びと希望を胸に抱きつつ、いそいそと帰途につきました。折柄東の山の端に、見たこともない大きな丸いお月様が静かに静かに一人辿るこの身を見守るかのように、我が全身に光をなげかけていられるではありませんか。尚、耳あたらしさ今日の、「お月様をおがんでも、これが大ミオヤ様と思って一心にお念仏を唱えなさい。そうすれば自然に心が開かれてまいります」との聖訓を思い浮かべ一しお有難く、聞く人もなきまま生れて初めて心から大声あげて「南無阿弥陀仏」と唱えたのでありました。

聖者のみ手にひかれて

嘗ては念仏を縁起の悪いものと思い、嘲りの心さえ持っていた私が、たった一日の内に何は差しおいてもお念仏を申そうという気持になって仕舞った事はあまりにも不思議な、大きい心の変化でありました。これは単にお念仏を申すべき訳を了解したからというのではなく、聖者が身を持って説法し体現します、ただ一分の隙間もない一挙一動からこぼれ出た人格の光に打たれたからでありました。その崇高な霊格は、ただ仏を念じ給うその一事によって成就せられたのだという事を知ったからでありました。

初め、私が笹川様へ伺いました時には未だお着きにはなって居りませんでした。拝み馴れないお画像のまえで大勢の方が木魚をたたいて念仏しておられました。私はどうしていいか拝む仕方もわからず飛んでもない所へ来たものだと思って、小さくなってひそかにあたりを眺めていました。やがて、「お上人お着き」との声に、夏のこと故、明けひろげられたむこうの方を見ていますといかにも質素な鼠色の衣をまとったお坊様をおうちの方々が頭をすりつけておがんでいらっしゃいます。あのお方かと思った時今まで「えらい人」という私の観念に一つもあてはまらぬ謙虚な御様子のお上人様を見、意外の感に打たれました。室におちつきになったかと思う間もなくお使いの方が私に「お上人様がお呼びです」と申されました。案内されて、おそるおそるお室に入ろうとしました時、前に御挨拶に行っていらっしゃいました御出家の方が、廊下へすべりおりて立ったり坐ったりして三度もお上人様を拝んでいらっしゃいます。私はどうして御挨拶していいかわからず、最敬礼の二倍ほどの丁寧さで、さて頭をあげて見ますとお上人様のおつむりは未だ畳についていました。ハッと恐縮しております私を、輝かしい笑顔でお迎え下さいまして「よく来ました、あなたの事は中川さんから聞きました」と仰せられました時、あまりの勿体なさに思わず涙のあふれ出るのをどうする事も出来ませんでした。

お上人様はもう私の心の底まで見透しておいでのようで、お話し下さいます一言一句が腹にしみ込むように思われました。

弁栄聖者のご法話

私たちは肉体はこの世の親からもらいましたがその中に心霊のおや様から仏性という仏になる尊い種をいただいております。それは丁度卵のような状態で、親鳥にあたためられなければひよことならないように、また植物の種が土にまかれて太陽の光と適当の湿気を得なければ芽ばえないように仏性の種も一心にお念仏申して親様のお育てをうけなければ生きてまいりませぬ。

太陽の光は天地一ぱいに満ち満ちていても真暗な倉の中に入っていてはちっとも光のある事がわかりませぬ、私たちは煩悩という厚い厚い黒雲に閉されていて親様の光はちっとも見えませぬ、一心に念仏しておすがりしていると段々に光がさして来て黄雲に包まれているようになり。なおお念仏すれば白雲に包まれているように明るくなって来ます、ついには白雲も晴れて仕舞って、はっきりと仏様を拝する事が出来るようになります。

プラトーの言葉に、「凡人の昼とするところは聖人の夜、聖人の昼とする所は凡人の夜」というのがあるが、聖人はこの眼で視、耳で聴く五感を通じてみるうつりかわりの世界の外に、永遠にかわらぬ常楽我浄の本当の世界をみているのである。

ああ恥ずかしくも何という傲慢な私であったのでしょう、自分が罪障の雲におおわれて居ながら、外ばかりをせめて、光がない光がないと嘆いていたのでした。

大ミオヤ様のみ光をそのまま反映しまします聖者の御光に打たれて如何にも見すぼらしい自分の心の姿を見出し、初めて中心からへりくだりの心に立ちかえらせていただきました。

「何かたずねたい事はありませんか」と仰せられました時、心の中に一ぱいあった疑問や煩悶は何処へいって仕舞ったのか、お尋ねする何もないように思われました。然し、お上人様にお別れしたらまた何時お伺いが出来るやらわからぬと、一生懸命の思いで「私はこれまで人間のどうする事も出来ない大きなものがこの世界を支配しておられる、それが神とか仏とか名づけられるものとは思っていましたが、そのお方があの画像のようなすがたをしておられるという事はまだわかりませぬ」と申し上げますと、上人様は「仏様は自由無礙のお方であるから人間に対してはそれに応じて、最も親しい人の姿で現われて下さるのです。今あなたがお日様を見てもこれが如来様と思って南無阿弥陀仏と一心にお念仏をなさっていると、きっと心がひらけて、はっきりと心にわからせていただくようになります」と仰せ下さいまして、じっと空を仰いで合掌なさいますお姿の神々しさ、この世ならぬ世界に私までが引き入れられるような気持で心もうつろに、何も考える事などないように思われました。気がついてみますと、上人様は、はるか床の間の方の坐蒲団からすべりおりて、だんだん私のすぐ近くまで、いざりよっておいでになっていました、数ならぬこの身にかくも優しく懇ろにお諭し下さいました事の有難さ勿体なさ、久遠劫来の親にめぐり合ったような感じ、今もその時の事を思い出しますと、涙ぐましい感激を覚えるのでございます。

その後、恒村先生、中井先生御両家の御熱心によりまして京都にもしばしばお立寄り下さいますようになり、貴き御指導を戴くにつれ、これこそ私の畢生を尽して心の依所とすべき御教えとありがたく、お目もじいたす度毎に益々光明に輝かせたまう聖者の、ただ人におわしまさぬ事を知り、何の宿縁あってこのみのりにあうかと、御道詠の、

思い出でて日に幾度か袖ぬるる

の心地が致すのでございます。

(次号につづく)

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