光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.11 さえられぬ光に遇いて 5

お授戒について(前号つづき)

熊野 好月

戒法は実に如来の大道を教えるいわば父の憲法ともいうべきで、これを守らなければ人に生まれた甲斐はないのである。しかし信仰に入ったばかりのものは赤子である。赤子はただ親をしたって泣くばかりである。その泣く声(念仏)によって慈悲のふところに抱かれ、親に離れぬところに真に育てられるので、念仏はいわば母の慈悲である。
念仏する処に

  1. 清浄光によって罪消ゆ(摂律儀戒)
  2. 一切の善が心に備わる(摂善法戒)
  3. 真にみ親を信ずれば一切衆生は兄弟である、お互いに思いあうようになる(饒益有情戒)

南無と如来様に心を捧げてしまう、そうすれば如来様は新しい心(即ち娑婆の心を如来心)と入れかえて下さる。一念に念仏し、み親にすがりさえすればおのずと我がものとなるのである。

十重禁戒の内では殺生戒の中に他のすべてを含めてお話しになったようにさえ感じられました。即ち「霊性を殺すようなすべての所作をなすなかれ」霊性を活かすべくすべてを生かせ、生き物の命を取るばかりが殺生ではない。あらゆるものを、ただ霊性を育てるべく役立たせ、生かせ慎めよと呼びつづけられたように聞き取られました。

これを承りまして、私は自分の日常の所作を一々反照らして見ますに、悉く周囲のものを傷つけ、殺し、霊性の上にくもりをもち来たす生活でしかないのに気づき、思わず身ぶるい、戦きを感ぜずにはおられませんでした。人に対すれば人の心を暗くし、物を粗末にし、居所を荒らし、一挙一動皆自他を害せぬ所作とてはないのでした。

それにひきかえ、上人様の日常を拝し奉るにほんの意味もない動作と見えるその中にも無限の生かす力のほとばしりを感じ、手の動くところ眼のむかうところ、そのままが物みなを生かし、かがやきを増さしむるのでした。肉体より光の波のゆらぎ出ずるが如き感じ、ああ何たる月とすっぽんのような差でございましょう。お念仏の他に救わるる道なき私である事を、この授戒会によっていよいよはっきりとわからせていただきました。

昔善導大師、三品の懺悔を説いて、上品の懺悔は眼より血の涙を流し、全身の毛穴より血の汗を出して無始以来の罪を懺悔し、中品の懺悔は総身より汗を流し、下品の懺悔涙が出て来るのであるとの事を聞きまして、勝れた方は、一切衆生の罪を我が罪として微に入り細に渡っての懺悔をなさるのに無慚無愧のこの身は・・・丁度蚕のように頭だけを隠して平気でおる己が心の姿を、今ぞ貴き聖者の徳の光にてまざまざと照らし出されまして、はずかしさやる方なく、如来の宝前に始めて心からなる懺悔の涙もてひれ伏したのでございます。

御法話片々(特に感じたもの)

  1. 胎内にある児は養われつつも味わいを感ぜぬように、念仏も初めは何の味わいも感ぜぬ。
  2. 生まれ出た赤ん坊は本能的に乳を飲めるように、念仏に味がわからずとも何となしに申したくなる。
  3. 赤ん坊が段々育てられると乳の味がわかってきてほしくなるように、念仏も次第に味が出てくる。
  4. ついには甘酸等五つの味がわかり、後には変わった味やかたいもの等を欲するように、法喜(春に花ひらきたるが如き霊的気分)、禅悦(三昧中に感ずる悦び)等、えもいわれぬ趣味が念仏中に味わわれてくるようになる。

助かるという意味

たとえば捨て子をたすける時に、家に連れてかえって箪笥の中にしまっておく事ではなく、育て生かす事である。人の心が救われるというも極楽にしまっておく事でなく、心霊の上に育てられる事である。念仏は死ぬためでなく生きている内に心霊的に助けられ生かされるために申すのである。

もし念仏がいやになり味がなくなったら

それは丁度食欲がおこらぬのは胃腸に故障があるためであると同じく、心霊的に故障を生じたためである。健全に育てらるる時はつねに新しい食物(念仏)の要求がある。

人に生まれて真に進もうとすれば努力しなければならぬ、磨き出す必要がある。みがく必要のないのは金剛入りでなくて丹羽の捨て石である。

私達、仏教と云えば手も届かぬ深遠なむずかしいものであり、また一面には死んだ先の事をつかさどるものであって、どちらにしても今の私には縁の遠いものと思い込んでおりました。

お上人様の御法話は、一々が耳新しく遠い先の事でなく、日々否一刻もゆるがせに出来ない理屈でなく早速実践すべき物、体験してこそ深遠な教えも味わう事が出来るものである事が分かりました。ひしひしと胸にこたえる御法話の数々は今まで知らず知らずに転倒した心の心の向き方の間違いを一つ一つ気付かせて下さいました。日頃うっかり習慣として、気もつかずにいた事柄について反省させて下さいました。

(次号へつづく)

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