光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.13 さえられぬ光に遇いて 7

お授戒について(前号つづき)

熊野 好月

授戒会に於ては十二光仏の礼拝が日に幾十度となく繰り返されました。五六十名の人が一堂に集まって一斉にこのような事を致すのは初めてでありましたので、仕方もよくわからずまた、日頃余り掃除の届いておらないらしい本堂の、幕を引きまわした薄暗い中で、元気な若い人達がドサドサと立ったり坐ったりしますので、定めし埃の立つ事であろうと、生来潔癖な私には呼吸するも気持ち悪く、初めは礼拝が始まる度にいやな思いをしておりました。同じ思いの殊に衛生家であられた中井先生はたまりかねてや、礼拝の都度、一人幕の外に出て、仏様のみえぬ処でやっておられました。それを見ました私、さすがに女なれば、そこまで思い切った真似も出来ず引きずられながら皆さんと同じ処で、余り息を吸いこまぬように用心しながらやっている煮え切らぬ有様でありました。何もかも見通しのお上人様は、早速私たちに懇々と礼拝の功徳を説いて下さいました。最後に、

「また、礼拝は最も生理に適った、深呼吸と全身の屈伸運動を兼ねた理想的な健康法である」と仰せられました。その後は先生も幕の中で気持ち良く皆と共になされ、私も初めてその尊さを実感させて戴けるようになりました。礼拝によって不知不識の裡に高ぶりの心は折られて敬虔な謙虚な心になおして戴いたのであります。自らの罪の深さに泣き濡れて、すべてを投げ出して大ミオヤ様のみ前にひれ伏した時のその甘美なる法悦の味わい。当時の心境を思いなつかしむ今は光に馴れし自然の結果も。はたまた新たなる煩悩の雲に覆われてか、その後は当時ほどの感激に浸れない自分を心さびしゅう感ずるのでございます。

もう授戒会もあとわずかになった1月30日というに、思いがけなくも、横浜の別時から京都へお帰りになったばかりの恒村の奥様が、突然おいでになりました。驚いて訳を承りますと、御主人から2ヶ月程修養をして来い」といわれてすぐに引き返して来たとの事、私はお上人様にお別れする日を目前にひかえて心から羨しく思いました。2月1日いよいよ最後の日、厳かな式によってここに仏子となるの資格が与えられたのでございます。名残は尽きねどもかくてあるべきならねば御なつかしい上人様、10年の知己のように打ちとけた光明会員の方々と、幽邃なる当麻のお山に別れをつげて中井先生のお供をしてへと帰路につきました。上人様は玄関までお見送り下さいまして、
「いまあなた方は当麻山で死にます。そして明日京都で生まれます。しかし貴方がた御自身はずっと続いていて切れ目はありますまい。お浄土に生まれるのもこれと同じ事です」と仰って下さいました。

力なきが故に重い心で謙虚ながらつとめていた学校のつとめも、割に心も軽やかにへだて心をのけて生徒に接する事が出来、今までにない明るい気持ちになりました。人の思惑と外面のつくろいにのみ心を配っておった、つまらない努力を打ち捨てて素直な本心に立ちかえり、ありのままなる己がすがたを衆人の前にさらけ出し、力が足らぬ故に皆の方々の御力で補っていただき、育てられることに感謝の思いをもって打ち任すべきである事に気づかせて戴きました嬉しさ。たとえしばらくは過去の惰性に押し流されるとしても、いま聖者によって与えられた、中心の宝をしっかりと守り育てさせて戴かねばならないと決心いたしました。
その頃、下級生の修身はその組の主任が受け持つということになりましたので、第二学年の担任だった私は救われた喜びを伝えずには居られない気持ちから、いつも信仰の話にうつって行ったのでありました。今思えば、卒業生といわず友達といわず、同僚といわず、誰に対してもこの信仰のありがたさをとき、ここに目ざめなければ人生は畢竟無意義であるという事を熱心にお話いたしました。
中にはずいぶん迷惑もした聴き手もあった事かと、ほほえましい感をもって回顧致すのでございます。

かくよろこびに浸りつつも、お上人様のお側を離れてひとり自分の日常の行状をじっと眺むる時、そのみじめさ、あたかも木から落ちた猿のような現実の暴露、過去の惰性にまたしても押しながされ、ひきずられてゆく私をどうする事も出来ませんでした。なる程「うつり香」と仰せられたように、聖者のかげにある時はすべて無礙の思いで、何もかもがただありのままの姿をもって、生きいきとしておったのに、今のしどろもどろのあり様は、事ある毎にそのいかに大いなる距たりなるかをわからせていただき、つくづく単なる観念の上のお悟りは何の役にも立たぬものである。この時ほど体得するという事の大切さを痛感した事はありませぬ。それは決して濡れ手で粟をつかむような訳にはいかず、一夜漬に出来るものでなく、行く手は如何に遠くとも一歩一歩と忠実にふみしめて行くより外に術もない事でありました。帰りましてお上人様にお礼状を差し出し、感謝の日暮しをしながらも、これまでの惰性にひきずられるみにくい自分である事、しかしすべてを大ミオヤ様にうちまかせた上は、苦しい困難な事に出逢う毎に、これによって一つ一つ峠を越えさせて戴く事を知り、今は従前のようなつまらない悲観はせずに、これぞ大ミオヤ様の、この拙きものをお育て下さるお慈悲の試練と有難く、進んで次のためしを待つ心になり、試練に落第せぬよう心がけておると申し上げました。

聖者が常に仰せられた柿の実のたとえ
「柿の実は雨が降っても風が吹いてもしっかりと親木につかまって離れぬ。そこに段々養い育てられて、中味が円熟する。中途で木を離れたならば土におちて腐ってしまう。」
とてあくまで名号を執持すべきことを教えられました。このお譬えはこの世の色々の事の上にもあてはめられる貴いお教えであります。何事にまれ、いま一息というところにて堪えきれずに退却し、ついにせっかく与えられた体験の機会、御慈悲のはからいを避けては、ついに苦を脱却する事が出来ぬのでありました。
無礙光によってこの己があやまりを照らし出され気づかせて戴いたのではありますが、如何せん業の力にしばられて、己が力にてはどうする事も出来なかったのであります。御救いにあずかるより外はありませぬ。かくて、おすがりする心もいよいよ切にならせて戴くのでありました。

当麻山でのお留守中の生活(聖者は他所へ巡教)はこの上もなく散漫なのんきなものでありました。念仏申すもあり午睡するもあり、あるいは読書または散歩等おのがじし取とめもなく、茶目たっぷりの御両人、小僧さんの衣と笠をかりて行脚に変装し、ばあやさんをびっくりさせたり、夜などその頃未だランプで、その火影で松井さんの実感から綴られた創作を読み書きされたり、中井先生の、御令室とのロマンスを承ったり、私はこの方々の純真なお心がいよいよ淳化されて宗教へと辿りつかれた事を尊く思いました。それに引きかえ、私の過去は詩もなく夢もなく、ただ一家の生計という縄にしばられている身。しかし今は失望の憂いなき愛の結晶にいます如来様を慕いまつる身となり心はいつも御慈悲に満ちみたされておる事の幸せをつくづく有難く思いました。これこそひねくれた私の通らねばならなかった道でありました。

3日もたてばこうした生活にあきます。そろそろお上人様のおかえりを待ちのぞむ気持ちになり、汽車の時間に合わせて、かわりがわり例の原までお迎えに参りますけれど、仲々お帰りがありません。待ちあぐんだ5日目の午前11時頃、小雨そぼふる中をお一人でヒョッコリ帰っていらっしゃいました。寺中が活気を呈してまいりました。お内仏様にお念仏ひとしきり皆に御挨拶の後、何か小僧さんに指図遊ばしていると思う内、早やその机の前に坐して何か筆を動かし始められました。お昼食までの30分にです。遊び暮らした私達はこの御様子に何ともいえぬ慚愧の思いに浸されました。この5日間はどんなにお忙しかったであろうに。いわばおうちであるこの寺、2、3ヶ月に渡る旅のお疲れを少しはのびのびとお休め遊ばすかと思ったのは愚にも私共凡俗の想像でありました。聖者には三界に我家とてあらせられぬのでありました。御自身の時間とて寸時ももっていらっしゃらなかったのです、ああ勿体なや。

(次号へつづく)

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