光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.20 さえられぬ光に遇いて 14

随行記

熊野 好月

佐々木上人様や大谷象平様が引きつづきお供を遊ばしてかの長野での御いたましい御苦労もこの御旅の途中であったと承りました。
聖者かねてよくこのように仰せられました。
「人はこの世に生まれ出る時、如来様から、その人でなければならぬ特別の使命御用を授かって生まれて来る。しかしそれが何であるかは、しっかり封じられていて容易にわからない。早くそれがわかれば迷わずに目的に向かって進む事が出来るけれど、あれかこれかと暗中模索で苦しんでいる。中には今生で見出し得ぬ人もある。一心にお念仏申して早くその封をひらいて戴きまっしぐらに使命に精進せねばならぬ」
 ほんとうに酔生夢死(※註1)の人生ではつまりません。愚者は愚者なりに何等かお役に立つべきであるので、人ばかりでなくすべてのものの本来の使命がわからぬばかりに、私共の周囲には何と無意義なものや不要と思わるるもの、廃物が充満している事でしょう。全く自分が幼稚で真に生かされておらぬから、物それぞれの本領を発揮させる事が出来ぬので、その事について「如来様は無駄なものは何一つお作りになっていない。いらぬもの無駄な事と見えるのは私たちの心の眼が育っていないからである」
と仰せられました。また、
「世に偶然だの奇蹟だという言葉があるが、それは凡夫の思う事で、眼の開けた人には偶然はない」とも仰せられていました。

深い御体験からにじみ出たお言葉は、人の肺腑をもつらぬくもので、私共がどうする事も出来なかった、捕われの心、迷いの境界から、何でもなく解き放って下さる不思議の霊力があります。丁度母親が赤ん坊に堅い物を噛んでふくめるように、聖者は私共には歯も立たぬように思われた仏教の甚深なみ教えを如何にも身近な例を取って、やさしく味わわせて(※註2)下さいます。

私はかくも深い御恩に報い奉りたいと思いまして、この御恩報じの道は、一人でも多くこのみ教えを世に知らせる事である。然しとても力なきこの身の及ばぬ所、せめて身近な弟妹がこの姉の意を体してくれるようにと至心に祈りました。皆も一心に修業してくれ、まことにたのもしく思いました。然し時間と空間の制限の中にあって、己が心さえわが思うままにならぬものを、まして他を頼りあてにする事は如何に愚かしい事でしょう。自らの修業を怠っている身をおいましめ下さるのでした。

お別れしたお上人様が北越で御病気と風の便りに耳にしましたのは11月20日頃でありました。ありがたい、なつかしいおじい様とも親とも慕いあこがれるお上人様が、寝耳に水の驚き、何かしらかりそめのそれとも思われぬ感じが夢となって、払いのけようもない重い心持に落ちこむのをどうする事も出来ませんでした。あのつやつやした、おからだのどこから病魔はつけ入ったのでしょう。もっとも夏の頃も信者の供養されたお薬を始終召し上っておりはしました時には多少のお熱もあったのですが、どんな時も一向気にせられず平生とかわらず病人らしくなく御活動を続けておられますので「お上人様のおからだは特別なのだろう」と大した事にも思っていませんでした。日頃の御無理が一時に出て来て、いやが上にもおからだを攻める事でしょう。お供しておられる谷安三さんからの報道は一度は一度と憂色深く、はては恒村先生招電が参ったのでありました。取るものも取りあえずかけつけられた先生のあとを追って中井先生も恒村夫人も行ってしまわれ、ひとりあとに残されて仕事も手につかず、ついに意を決して、理解ある校長先生のお許しをうけて北越線を走る身となったのは11月25日でありました。この時程汽車を何とのろのろしておると思えた事はありません。気もそぞろに辿りつき、駅には佐々木上人などお出迎えになっており、私の外に各地から汽車の着く毎にたくさんの方々がかけつけられていまして、早速恒村先生に案内されて御病室に通されました。お上人様は純白のしとねに仰臥しておられ、氷のうをのせられた相かわらせられぬ額のつやつやしさ、しかしおひげなどのびて衰弱のかげはおいたわしく拝されました。ひれ伏す子等に、かたき合掌をもって答えられ、
「遠方の所をわざわざありがとう、心配かけてすまないです」と仰せられし勿体なさに張りつめていた気も一時にゆるみましたか溢れ出る涙をおさえ得ませんでした。来る人に一々御丁寧な御あいさつ、御高熱とあらいお息づかいの中から、常とかわらぬ御心づかい、かえって見舞いに来た人にいたわりの言葉や、御病人の様子などきかれていました。

急を聞いてかけつけた信者の方々が本堂に庫裡に一ぱいあふれ、そのお顔は深い憂色に閉ざされていました。承れば昨夜腸出血があったとの事、容易ならぬ症状であります。

(つづく)

※註1 酔生夢死
(酒に酔い夢を見て一生を終える意から)これといった仕事もせず、後世に何の記録も残さずに一生を終えること。何のなすところもなく、無意味に一生を送ること。
出典『日本語大辞典』
※註2 味わわせる
「味あわせる」と表記されることもあるが、動詞「味わう」に助動詞「せる」がつく用法の場合は、「味わわせる」が正しい。
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