光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.21 さえられぬ光に遇いて 15

随行記

熊野 好月

寺内の方々の連日連夜の御看護のおつかれをしばらくでも代わらせて戴きたく、早速お枕辺に侍する事になり、お念仏申し涙ぐんでいるお足をおさすりしたり、氷のうをかえたりさせて戴きました。腸出血のあと1日あまりの断食のあと慧月さんのつくられたマルツエキスというのを大変おいしいと召し上がり、折から東京からかけつけて御傍で看護しておられた小黒さんに「小黒さんこのマルツ汁というのは大変滋養になるそうだから、あなたのお子さんの弱いのにきっといいです。作り方を聞いて早速こしらえて上げなさい。」

またしても人の上を案ぜらるるお上人様です。お熱の為か鼻腔がすっかりはれふさがって口でなさいますお息づかいはとても苦しそうでありました。それがうめき声のように大きく表の方まで聞こえる程で聞く人の胸をつきさすのでありました。室外は憂色にとざされておりますのに不思議に一歩病室に入れば、厳粛さの中に、何となく明るく安らかな気にならされてしまい、お元気な時にお側に侍する時と同じく心持も軽く明るくしていただくのでありました。お息がつまる為深い眠りもおとりになれず、うつらうつらとしてはお目覚めになりました。いつも讃歌のようなものを口ずさんで時々は手拍子をうって詩歌のようなものをおうたいになり、またしてもお側の人に御法話をなされ如来様の尊さを説ききかされます。これでは御疲れもあろうかと、「お上人様、お疲れになりますから、またよくおなりになってから伺います」と申し上げますと素直にうなずいておやめになりますが、またしても始まります。またと承る事の出来ぬ御説法を真剣に伺おうとしなかった愚かさよ。

一切を大ミオヤ様に捧げられた御態度は、ゆったりとして傍の人のなすがままに好意をうけ入れ給うおやさしさ。いつ御容態を伺っても「大変楽になりましたありがとう」「昨日より楽です」とおっしゃいます。それが決して我慢なさってでもつくろってのお言葉でなく至って自然であります。きびすとお尻のところに床ずれが出来、赤くはれておりまして、常の人ならば周囲の人に訴えてあちこちとからだを動かされるのでありましょうに仰臥のままみごろぎも遊ばされず絶対安静を守りつづけておられました。やすみなれぬ体には中々出来ぬ事でございます。

お息づかいのはげしさに、またしてもお伺いしますと、「いえ大変楽です。魔があなた方の同情をひこうとして苦しそうにみせかけているのです。魔に同情してはいけません」笑って仰せになりました。ああ、ああとただ仏の御慈悲を咨嗟し讃嘆しては空中にむかって赫く御眼差しで合掌遊ばすのでありました。あわれ霊の眼の未だ開かぬ身は、みすがたを拝すべくもなくただ空中を共にふしおがむばかりでありました。腸出血のあと初めて便通を催されたらしく、皆のものに室を出ておるようにとの強いてのお言葉に次の間に下がりました。相かわらずの黒便で前の残りであろうとの医者方のお言葉でありましたが、御病状は一進一退、それにつれて、一喜一憂の有様でありました。境内の大木を渡る木枯らしの音、時雨ふる一時、樋を打つ雨だれの音すべては鉛色の空と共に陰惨なかげに覆われて重くるしい気分に閉ざされます。ああその中にあって、お上人様のお室だけ何と平和な明るさ、泰然たる聖者のお姿よ。つね日頃がすでに臨終と同じ真剣さをもって処せられた聖者としては今更でもない事ではありましょうが、つくろいのないありのままそのままの一挙一動がのりをこえぬ自然のやわらかさ、今まで承ったどの御話にも優る大説法を身をもって示されたのであります。万一の事があれば一体どうなるでしょう。然し誰もが口にするもおそろしい事でこの思いがいわず語らず、胸の重くるしさでありました。二十九日いつまでも侍しておられぬ身の心をのこしつつお暇乞いし京都に帰りました。

12月3日「ショウニンキトク」翌四日「ショウニンセンゲ七ヒオクル」との悲報に接しました。理解ある校長先生は自分から「行って来てもよい」と仰って下さいましたが、もう行きたいとは思いませんでした。ただ泣けて泣けて、ひとり籠っては泣きくらしたのでありました。お上人様が如何に大きく在したか「恐らく全国の信者を一丸としても一人のお上人様であり得ない」。これが偽らぬその当時の感じでありました。

お上人様の偉大さは超然として高く衆人の渇仰の的となっていらしたのでなく、丁度水のように、それぞれの器の中に入ってこれを満しつつしかも水の本性は失わぬところにあると思います。ある所では「弁栄さん、弁栄さん」とお婆さん達はお友達のように親しみ愚痴の打ち明け所とし、また子供など大変なついて離れようとしません。学者にはそれぞれの専門について質問をされその人の説明をききつつ、いつの間にか法の糸のつながりが出来ています。全国幾万の人々が「わがお上人様」と慕いあがめ、各々の全部に満たされし感を与えられたのです。丁度幼な子の手にもすくわれる水、ある時は雲となって天翔り、ある時は水底に深く神秘を蔵する大海となり、形なき結晶として岩の中にも草木にもしみこんで、そのものの生命となっておる。千変万化無碍自在のすがたさながらの聖者の徳相は、申しても申しても申しつくせぬ感がいたすのでございます。

 聖者に取り残された「みなし子のさすらい」もかげに大悲のあやつらせ賜うものであった事は後になってわからせていただきました。

その告白はあまり長くなりますので別の機会にゆずらせていただきます。

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