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聖者の偉業

聖者の俤 No.31 乳房のひととせ 上巻 聖者ご法話聞き書き(授戒会の説教) 3

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇第一、快意殺生戒

かわい〈可愛い〉とかわいそうとはちがう。鶏は子を愛するが、病める子を哀れむ事を知らぬ。然るに、人間にはかわいそうという心がある。殺生を重ねると、このかわいそうという心が消える。仁を殺す事になる。仁を殺せば人間の資格が無くなる。人間は頭を天に向けて立っている。畜生は皆体を横たえて歩む。人間には理性あれど、畜生には無い。邪見な者の頭は下に向いている。

殺生の中で、虫や魚を殺すよりも、人間を殺すは罪が重い。人の中でも、君を殺し、父母を殺し、覚者を殺すのは、更に罪が重い。最も重い罪は、己が仏性を殺す事である。即ち成仏せぬのが最も大きな罪である。なぜかといえば、釈尊がこの世に出られたのも、吾々を成仏させんが為めであり、過去の聖者達の御苦労も吾々を化導せんがためであり、その上、吾々は毎日多くの殺生をして生きている事を思えば、是等の御苦労や犠牲を無駄にしてはならぬからである。吾々は仏性を育てるために生かされている事を知らねばならぬ。

戒を受けたならば発得せよ。もし発得せねば結縁に止まる。われらは元より仏の子であるが、それを知らなかった。このたび戒を受けて、仏子の自覚を得た。菩薩の仲間入りをしたのであるから、今までと異なって、一切の衆生は兄弟であると心得ねばならぬ。この心を承知したのが発得である。菩薩の心を起こせば、心霊の飾、即ち瓔珞ができたのである。この瓔珞は、お金で買えない。人格に相応したものである。如来光明歎徳章に「この光に遇う者は、心の三つの汚れ消え失せて、身も心も柔らかに、悦び充ちて善き心起らん」とあるは、心を飾る瓔珞が立派になる事を示されたものである。

念仏を申せば、如来に同化され、一切の罪が消される。一心に念仏せば、仏念いの心が起り、如来の感化を蒙る。

殺生戒は生物に限らず、機械、器具の如き物までも生かして使う事である。水でも無駄使いをしてはならぬ。

いたづらに枕を照らすともし火も
思えば人のあぶらなりけり

時間を殺す人は、つまらぬ人間になる。

第二、不与取戒 盗みを戒む。

盗みに色々ある。従って其の業もまちまちである。人間に悪い事をさせぬように、はずかしいという心が与えられている。

伝灯相承というは、釈迦如来から今日まで、代々教えを受けつぐ事。自誓持戒というは、一心に七日、十日、一月、一年と仏に祈り、懺悔し、仏の現れを待って戒を授かる事である。

第三、不邪淫戒 家庭を戒む。

小乗戒は外形に止まるが、大乗戒は内面即ち心を浄くするにある。この戒は、仏心を呼び起して、道ならぬ動物心を制するのである。人は正しい縁に因って結婚するけれども、他の動物は、そうで無い。夫婦は家庭に於て観音、勢至の役をつとめねばならぬ。

五倫〈儒教の教え。人間関係を規律する五つの徳目。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五つ〉のうちで、夫婦は道の元である。夫婦は互に礼儀が無くてはならぬ。この道を君に用うれば、忠となり、親に対せば孝となる。畜生には、夫婦の間に礼儀が無い。

釈尊は葬式の引導をなさらなかったが、結婚の仲立をされた事がしばしばある。世尊が結婚式に臨み、新婚者を戒められて仰せられるに、

汝等結婚に先立ちて、まず真理と結婚せよ。真理は永遠に変わるものにあらざれば、真理に因って結ばれたる夫婦は、永遠に離れる事が無い

と。然るに、人は多く結婚前には相手の良い方のみを見、夫婦となって後は、悪い方を見る。即ち外面的結婚であるから、結果が悪い。精神的結婚でなければならぬ。姿や財産で結ばれた夫婦は、外面的変化と共に愛も変わる。

南無即ち帰命の帰は、とつぐ事である。己が全生命を捧げて、如来と結婚する事である。如来の両手なる観音、勢至の如き夫婦とならねばならぬ。

(つづく)

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