乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇十二入、十八界の話
六根とは眼耳鼻舌身意の六つをいう。六塵とは色声香味触法である。これを六賊ともいう。人の心が外界のものに汚されるから、そのものを塵といい、心を奪うから賊ともいう。六根と六塵を合せて十二入という。眼と色と合して、一つの識を造る。六根、六境(塵のこと)、六識を合せて十八界という。
歓喜光仏、感情の信仰
人には苦楽を感ずる情あり。天然の人は憂悲苦悩を感ずる。これを強く感ずる人と弱く感ずる人とある。それは性質によるが、一般に天然の人(生まれながらの人、修養なき人の事)は苦を感ずる事が多い。彼等は人生を快楽の舞台と思っている。しかるに快楽は貪れば、却って苦を感ずるものである。思うようにならぬ。満足できない。遠く見ていると楽しそうであるが、さて自分が味わって見ると、さほどでも無い。
幸福を求める心が四通りに心得ちがいをしている。即処世観が逆になっている。
この身について見れば、この身は快楽を味わうための器でないのに快楽を貪る。人は色に溺れるが、美しく見えるのは外に目的がある。不浄を楽しむから結果が悪い。受といって吾等が感受すべき事は結局苦である。心は常なしとて、凡夫の心は一定していない。変りやすい。法は無我なりというて、この世の事は自由でない。我とは自在を意味する。吾等は人間に生まれようと思って、人と生まれたのではない。この家に生まれたのも、何月何日に生まれたのも自分の自由にしたものではない。法は無我である。天則に縛られている。しかるに人々は自在だと思う処に苦しみがある。以上四つの顛倒想を抱いているから一生を不満で暮らすのである。生老病死を四苦といい、これに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四つを加えて八苦という。身にも心にも苦労が多い。八苦の世界にある間は、苦を免れる事ができない。この苦は自分の身につきものとしてあり(苦を感ずる心を持っている)また、外からも来る。己が罪悪をも感じ、どうすれば安楽に生きられるかと思い、宗教に入るのが罪悪観よりの入信である。外からは腹を立てさせる。内には怒る心あり。外からばかりならば、悪魔に捕われまいが、煩悩は内にあって免れ難い。かくて感情の方面から信仰に入る。
信仰の初めには、如来を彼方に見る。これが帰命の信仰である。如来をわがものとせんとしてあせるが、なかなか得られない。その感情ははげしくなる、これは感情的信仰である。 次に如来に融け合い、信心の花開けて、入我我入の霊感を得たのが、第二期ともいうべき融合の信仰である。ここに到れば、如来と霊交あり。人間ならば、結婚した時である。即ち情操的信仰である。悪魔に出会っても、如来を愛する情操強きが故に誘惑されない。妻が夫に対する情操より誘惑に勝つようなものである。
更に進めば、安立あるいは安住の信仰となる。安心して何ものをも恐れず、如来の懐に安住する。如来と融合した心に喜、楽、捨のよろこびがある。喜とは初めて念仏三昧が成じた時の飛び立つようなよろこびである。喜はだんだんおだやかになり、楽となる。次に捨という平和な状態になる。例えば、ほしい欲いと願っていたものを手に入れた時のよろこびが喜である。その飛び立つ喜びは永く続かず、それを楽んでいると心が安らかになるのが楽で、更に捨になれば、平和の中に深い味わいを覚える。かくの如き法喜禅悦は情操的の法味である。よろこびに五通りある。五乗即ち人、天、縁覚、菩薩、仏の間に五通りの異なるよろこびがある。
三身
宇宙全体は一つの生き物である。これを人格的に見れば法身仏である。万物の存在は法身に依る。法身仏を学問的に見て真如という。
報身は宇宙の中心にいて、いと大いなる有形の霊体である。ただし形といっても、霊界の事なれば、肉眼では見えない。心眼開けると、人の形をした吾等の大み親なる事がわかる。人間の身体は大み親の霊体に似ているから、人体を美の極みだと美術家は歎美する。肉体は衆生のものでない。一切の形ある物は皆、消え失せる。この身この儘、極楽に生まれても、永生を保つことができない。
仏身は生理的の身に非ずして、霊妙なる身である。霊なる心が現れると、如来の実在が明らかにわかり、浄土が見えて来る。浄土というもこの宇宙にある。今、現に此処にある。けれども肉眼では見えない。三昧に入り、心眼を以てせば見える。信仰の人はこの肉体の死と共に、心の眼が開け、霊界に入り、永生を得るのである。今より切れ目なしに極楽に生まれる。
応身仏とは霊界の事を吾等に教えるために、この世界に出られる仏、釈迦牟尼仏の如き人仏の事である。
(つづく)