乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇浄土
現世は夢にして、心霊界は醒めた永遠の天地である。なぜかといえば、現世の生活はしばらくにして夢の如し。昨夜を思い出す事ができるけれども、立ち返る事ができない。この世の生活も同様にて、世界大戦も過去となっては夢である。しかるに霊界は想像即実現であるから、時間空間を超越している。千年前の事も立ち処に現れて味わうことができる。また、今、この世界にいて、彼の土即ち浄土の事が自由に見、感じ、味わう事ができる。この世は全く夢である。肉体の楽しみは夢の中の楽しみであって消え失せる。苦しみもまた夢である。醒むれば永遠の楽あり。
心は本体にて、肉体は仮の物である。神聖、正義、恩寵は本体である。さればこの徳を汚しては大み親に申しわけが無い。肉体的苦楽を浮雲の如く見て、聖き心を守らねばならぬ。
神聖とは正邪善悪を見分ける智慧にして、これを正見という。この反対が邪見である。私共には認識の智識があるけれども、正見とは別物である。
正義とは、正見に依る正善を取り、邪悪を捨てて実行する力である。神聖と正義とは父の徳にして、恩寵は母の徳である。
如来は大慈悲を以て一切衆生を育て給う。衆生が道を誤る時は罰を感ずる。如来の慈悲は智と合一したる完全なるものである。人間の痴愛は禍のもとである。病苦や貧苦は天則に反きたる為に起こるものなれば、一切の苦楽を如来大悲のみ声なりと思い、反省の料として正しきに就かねばならぬ。経験は人を救う力となる。
光明主義と真宗
暗が消えて、日出ずるに非ず。太陽出でて闇去るのである。闇が去って太陽が出るというのは、浄土宗のある僧正等の信仰である。即ち罪を無くすれば、光明に遇うというのである。これは自力である。光明主義と真宗はこれと反対である。如来の光明に遇うから、罪が消えるのである。病気を治してから入院するというのは、まちがいである。大病なるが故に入院して治して貰うのである。これが光明主義である。あまり大病なれば入院しても治らぬ。念仏を申しても治らぬ。けれども如来に助けられるというのが真宗である。
次に横浜、久保山の別時で、中島僧正がなされた説教を参考のために記せば『観経』の下品下生の処に「仏名を称するが故に、念々の中に八十億劫の生死の罪を除く」とあるは、罪の働く強さが八十億劫に及ぶものをも消すという事である。罪に体と用とある。罪の本体は念仏の功徳に因っても消えない。作用が無くなるのである。下品下生の者は浄土に生まれても、すぐ如来の説法は聞かれない。極楽では悪が増長せぬ故に、次第に罪の本体が消える。極楽にある事永くして罪消え、終に仏となる。念仏せば、かくの如く滅罪増上縁の利益を蒙る。
臨終は罪の決定する時なり。生きている間に悪を働くも、まだ決定業とならぬ。生きている間に悪い事をしても、改心せば良いので、臨終に南無阿弥陀仏と称うれば、すべての罪は悪業とならず、念仏の功徳によって往生を得る。一度如来に帰命せば、臨終はどうでも良いというわけのものではない。
平常念仏せば軽い罪は無くなり、罪に至らしめない。真実の念仏は懺悔によらずば起らぬ。懺悔は反省から生まれる。それには己が欠点を知る事が必要である。
即ち暗黒面を見る事がまことの念仏をする様になる原因である。自分の欠点がわかれば、自分勝手が少なくなる。親切心が増す。手前勝手を無くするには念仏に限る。親切心を高めねば反省の心が起らぬ。反省が出来て懺悔ができる。懺悔ができて三昧が成就する。
(これが京都百山の中島老師が、久保山の別時の最終日の朝の説教である。弁栄上人も聞いておられた。この話の後、弁栄上人は最後の説法をなされた。既に聞き書きの部に記してあるが、中島僧正の説を訂正された趣があるから、要点を略記する)
〈極楽に生まれる資格〉
‥‥‥犬の胎内で、犬の形に決定せる者が、出産まぎわに人間に早変りする事はできない。この世で人が生きている間に悪い事をして、犬のような生活をなし、心が犬として生まれる業が出来上りながら、死んで仏に成らんとするはまちがいである。この世から仏の子らしく生きねばならぬ。悪い欲を起こせば、畜生の種が実る。念仏を申して仏心を起し、仏の種を育てねばならぬ。業事成弁とは往生決定の信仰が出来た事である。極楽に生まれる資格のできた事である。老いて気が短くなり、愚痴っぽくなれば餓鬼になる。‥‥‥‥云々
〈平常の念仏〉
弁栄上人はその後、こういう事をいわれた事もある。
ある上人の説では、平常の念仏は剣道の稽古のようなもので、臨終の念仏を真剣勝負の如く考えている。もし寝首をかかれる様な事が有ったならば、平生の念仏は無効になる。そんなわけのものでは無い。西に傾いた樹は、何時切られても、西に倒れるものだ。平常の念仏は大切である。
大地と信仰の人
霊に活きていない人は、大地に作られる大根のようなものである。大地は吾々を色々な元素で養い、大きくして食い、消化して土を肥やす。けれども、大地は、宗教に活きた人間を食い尽す事ができない。吾々こそ、大地をしてこの身を養わしめ、真に活きるために、大地を利用しているのである。
(つづく)