光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.38 乳房のひととせ 上巻 勢至堂の三月別時 1

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇勢至堂の三月別時

3月1日から1週間、京都知恩院山内の勢至堂で、弁栄上人御指導の別時があった。子供の時に、お正月を待ちこがれたように、私共はその日を待った。

この頃、人と語れば、信仰ばなしとなるのであった。思い内にあれば、色外に表わるとはこの事であろう。学校にあっても、時々製図室のストーブのまわりに学生を集めて、人生や宗教を語った。

「諸君、学問は大事であるが、今この話は諸君の一生を幸福にする事に於て、一層大切だと信ずる。必ず人生航路のコンパスとなり、精神生活の上に益する事が少なくないであろう。信仰の話は寺や教会ですべきであり、ここでは、その所を得ない事を私は十分承知している。その為に生ずる責任を負い、確信を以て話をするから心おきなく聞いてくれ給え。また信仰問題について、私の宅を訪ねてくれるならば、喜んで語り合う」という塩梅であった。

2月22日に、上人へ手紙を書き、学生や私の知己のために、一座の御講話をお願いした。

27日に上人から御返事があった。3月7日に知恩院の別時がすんだ午後、私の宅で話をしようという事であった。それで早速、2、3の教授や学生、友達へ招待状を出した。国の兄へも知らせたが、来ないといって来た。何を捨てても、このまことの教えを聞くべきに、真宗の安心に距てられ、いらぬ義理立てをなし、好機を逸するのを惜しく思った。その後、幾度も上人への結縁を計ったが、兄は一度も出て来なかった。上人の滅後、兄は上人にお目もじのできなかった事を、まことに残念だといっていた。

自分は工学よりも信仰の方面で働きたいと思ったから、精力の集注を計り、生活方針の転換を決心し、2月25日に学士会と機械学会とへ退会届を出した。その後、鉄鋼協会へも退会を申出で、だんだん工学と縁を切った。

27日のお手紙により、上人は29日の午後2時半頃、京都駅着と知ったので、私共は駅へ出迎えた。けれども予定が変り、上人は夕方知恩院に御着なされた。

3月1日、念仏三昧会はいよいよ始まった。私は妻と共に、恒村さん案内されて知恩院の勢至堂へ行った。

初めて来た此静かな境内!! 幾とせか京都に住みながら、かくも閑寂な別天地のあるを知らなかった。大殿や大釣鐘を見物に来たけれども、この聖境に一度も足を践み入れた事がなかった。今、身心を浄めて上って来た早朝の参拝は、一層深い印象を与えた。

まず上人を御室に訪ね、挨拶を申し上げた。それから一同お話を承り、9時から念仏三昧が始まった。

妻は遠来の婦人達と共に山内に泊りたいというので、自分は夕食後、身のまわりの物を取りに帰った。途中、電車の中で加屋博士に遇い、念仏の話を仕懸けた処が「われわれは科学と相容れない話を許す事が出来ない。先日、本願寺で説教というものを始めて聞いた。どうも、がてんの行かぬ事をいうものだ」、と相手にしない。私は霊性の眠っているこの医学の大先生に、新式の霊薬を飲ませてあげたいと思い「この七日の午後、私の宅で、弁栄上人という高僧のお話があります。本願寺の話と余程調子が違います。どうぞお越し下さい」といった。すると先生は「この歳になり、信者になっては困る」という返事であった。それは宗教を馬鹿にしているのか、気が狂っているのか。とても駄目だと思ったから、さじを投げた。

家に帰れば子供(榛名)は床に伏って泣いていた。今日は天気が良かったから、日中は女中と機嫌よく遊んだそうだが、夕暮れとなり、親を思い出して淋しくなったのであろう。自分は毛布や信玄袋をかつぎまた知恩院へ急いだ。田中大堰町の宅から、勢至堂まで約五十分の徒歩の道のりである。急いだのであるが、夜のお話を少し聞き漏らした。九時過ぎに下山した。帰り床に就けば十一時。夜のお勤めの後、上人のお室で私はこんな質問をした。
「私共が光明中に生活している事を、どうして知りますか」すると、次の如く答えられた。

「色々あるが、まず心は何となく平和で、暖かく感ずる。人は空気を呼吸しながら、ちっとも気付かぬように、光明中にありながら、始めは知らぬ。あなたは確かに光明中に活かされています。」

(つづく)

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