乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇勢至堂の三月別時
3月2日。神経が興奮した為か、夜中の1時頃から2度も3度も目が醒めた。4時を待って起き、家を出た。山内の茶所で泊る婦人達は、薄明りの中を、三々伍々、勢至堂に向かい、石段を上っていた。
4時半頃から念仏が始まる。自分は5時過ぎに三昧道場に入った。この日、午前中は1回も説教はなかった。午後1時から4時までのお念仏中に一度お説教があった。次に笹本上人は青年達の質問に答えて、如来を見奉るは幻覚でないという事を説かれた。夜7時より1時間半ばかり、弁栄上人は、三身即一についてお説き下さった。
3月3日。初日から連れて来た松井一郎という青年が午後見仏したといって、その実感を書に書いて、吾々に告げた。弁栄上人は昨夜、松井君を呼んで「松井さん、しっかり念仏しなさい。三昧にはいれます」といわれたそうだ。今日、自分は松井君と2人で上人のお室を訪ねた時、上人は、
「松井さんは霊的に生まれているから早かった」と仰せられた。
3月4日。3時頃から目を醒まし、床の中でお念仏を申しながら4時を待った。今朝も澄み渡る月影を践んで、まだ電車の通わぬ町を、恒村さんと話しながら山へ通うた。今日は百万遍の僧正が見えて一座の説教をなさった。弁栄上人と安心がちがい、話方もちがう。老人達は説教のあい間に、時々、悲しげな称名の懸声を漏らし、堂の内は湿っぽくなり、お寺参りの気分を感じさせた。
霊性開発のために、やっきとなり、大声を張り上げ、木魚をなぐって勇猛精進に念仏していた青年達の元気はどうしたのか。堂内は、今まで影をひそめていた爺さんや婆さん達の天下と早変りして、哀れっぽい声のみ聞えていやになった。
お話はすみ、休みの時が来た。若者達は、あちらこちらに集まって憤慨している。いやあれを聞けば、新旧の信仰の違いが、はっきりするといって、なだめる者もあった。
午後のお勤めが始まった。3時から2時間あまり、弁栄上人は、安心について有難いお話をして下さった。それを聞いた若者達は、敵打をして貰った様に、大喜びをした。
夜のお念仏の後、上人のお室で、私共は十時頃までお話を聞いた。家に帰り、子供の世話をしながら、留守居をしている女中に、今日の話を聞かせてやった。そのお兼という女中は、江州〈滋賀県〉の仰木村の生まれであって、真宗の家庭に育ち、永らく中京〈名古屋〉で奉公し、炊事、裁縫はいうに及ばず、茶の湯まで仕込まれた者であった。今まで私共が世話になった女中の内で、お兼ほど行届いた者は無かった。今に我等はその労を感謝し、かねの子供等のために古着を贈れば、栗や柿を送って来る。同じ釜の御飯を頂けるのは、深い因縁だといって悦び、時々手紙をよこす。そして昔の主人を、いつまでも忘れず、その子供等も、まだ見ぬ吾々を、紀州のおじさんといって慕ってくれる。あの恐ろしい世界的流感の横行した時、沢山人が死んだ。私共の友人や知人も多く死んだ。そして私共の家庭へも、その恐ろしい病魔が訪れた。まず妻は病床に伏し、子供は母と距てられ、乳ほしさに泣き叫んだ。運悪く、女中が去ったあとなれば、炊事、洗濯、子守、看護などを自分一人でせねばならなかった。子供を負うて、薬取りに行けば、街の景色は、この日ばかり灰色に感じた。人を雇うにも人は無い。何処も病人で、手は足りなかった。どこの火葬場も棺桶の列をなしたということであった。そのうち自分も感染し、頭痛が加わり、熱は上った。隣のお婆さんは子供を預ってくれ、郷里へ電報を打ってくれた。自分も床に就いた。この時、かねがお礼奉公にといって、江州から出て来てくれた。妻は手を合せて女中を拝み、仏様のお使だと喜んだ。看護婦が来、女中が来て吾等は助けられた。今半日、かねの来るのがおくれたら、私は重態になっていたであろうという事であった。
(つづく)