乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇勢至堂の三月別時
この別時の始まる前日即ち2月29日限り、かねにひまを出し、彼女の婚約を祝う贈物などをしたのであったが、別時がすむまで、客として引き留めていたのである。私共がこの別時につく事ができ、自分は一分ながら証を得、弁栄上人から、それは明相というものだ。今後は仰信によって励むようにと、お示しを頂いたのも、かねのお蔭だと思う。
3月5日。今朝は2時頃から、夢うつつでお念仏を申しながら幾度も時計を見た。4時に起きて家を出た。1時間半ばかりしか眠れなかった為、終日居眠り念仏であった。午後から夜にかけて、自分は法科の学生2・3人のために話をして聞かせた。彼等は上人のお室へ問答に行ったそうだが、上人は彼等に聞法の誠意なしと見られたものか、座を立たれたという事である。彼等は笹本上人にも尋ねたが、どうも解からぬといって、私を捕え難問を吹きかけた。自分は上人から教えられた通り答えたのであるが、同じ畑の赤ん坊に共通思想があると見えて、よく理解してくれた。この日のお説教を犠牲にして彼等の為に説いた事が、何かの役に立ったであろうか。今、ペンを執りつつ、その時欠けた筆記を惜しく思う。
上人の御帽子は汗や膏で汚れてあったから、夕方、妻が帽子を買って来て上人に献げ、古いのを頂戴した。それが今、吾が家の、貴重な御遺物の一つとなっている。
3月6日。あすが終りというので、終日熱心にお念仏を申した。
3月7日。別時は午前中で終った。祖廟の参拝を終えて後、私共は上人のお供をして、田中の自宅へ帰った。家には早や3・40人の人達が集まっていた。
上人は3時頃から2時間ばかり、縁側まであふるる学生や知識階級の人々、光明会の信者、遠く神戸、大阪から来た友人などの為にお話をして下さった。自分はそれを筆記した。
お話が終り、会衆が去って後、私共は京都光明会設立の事を上人に申上げた。その間、徳永さんと梅子(妻)とが上人へ夕飯を差上げるため、台所で働いていた。やがて彼女等の心尽しが(それは貧しいもので有ったにしても)上人の御前に運ばれた。上人は結構だといって、すっかり召上られた。
先日恒村夫人が上人を尊ぶあまりに、料理屋から珍味を取り寄せ、御前に陳列した処、上人は、ただお汁に手を付けられたばかりであった。その後、上人はある人に「あれではいけない」といわれたそうである。常子夫人(恒村氏の)彼と是れとを思い比べ、その後は、手料理で上人を賄い申す事にした。
翌る8日から5日間、大阪府三島郡豊川村の笹川市兵衛氏方で、上人御導きの別時があった。吾等は七条駅へ上人を見送り申した。梅子は上人にお供をして行った。
12日。夜11時半頃、上人は京都駅を通り、福井県へ向われた。恒村氏夫妻、徳永さんと自分の4人がプラットフォームに出迎えた。お供の松崎さんがハンカチを打ち振り、汽車の窓からここだとあいずをした。
上人は満面紅潮し、慈眼うるわしく吾等の礼拝を受けられた、吾等の双眼より涙は流れ、語らんとして声出でず、ただ合掌。コンクリートの上に涙点々。この光景を見る車中の客も、駅員も、皆崇厳の思いの様であった。
上人のお供をして5日間の別時を全うして帰り来れる妻の顔にも悦びの涙が輝いていた。
停車の5分間は過ぎ、汽笛の響を残して、列車はすべり出した。一同合掌礼拝すれば、上人は窓よりお顔をさし出し、久しくこちらを見ておられた。
その時の光景は、10余年後の今日、目をつぶれば、昨日の如くに、闇に消え行く上人のお顔が、まざまざと見えるようである。
(つづく)