乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇聞き書き その四(三月別時講話の筆記) 〈つづき〉
第二日
念仏の安心は、催眠術の暗示に等しく、死なねば助からぬと教えるならば、この世では信仰的に活きられぬ。宗教は安心を決定する事が大切である。聞いて理解するだけで無く、感情的に、意志的に生活の上に現れて来なければ、ほんとうに安心が決定したとはいわれぬ。如来は我がもの、吾は如来のものとならねばならぬ。わが全生命を投げ出して如来に帰命せよ。
信仰の無い人でもたよりにしているものが有る。そのもののお蔭で、さしあたり生きている。けれども、そのものは永遠のたよりにならぬ。それは我々を楽しますけれども、しばらくである。このはかない有様はこの世の法則である。肉に生きる者は、大根が人に作られて食われるように、人間も終には、土に食われる。
拝む如来は大きくとも、小さくとも、絶対(宇宙精神)より現れて下さるのであるから、絶対に信頼すべきである。地球でさえ、如来に救われるという位、宗教は大きいものである。地球のできた初めから終りまでに、幾万の人が成仏したかによって、地球の成績が決められるのである。
別時を勤める目的は、如来の実在を確かめ、信仰を確立さす為である。如来の実在を確立せば、見仏したも同然である。信仰に入って、何となく暖かく感ずるのは、如来の実在に触れた為である。知見が開け、何となく心地よく、有難い気分を感ずるのは、如来の慈悲に触れたのである。如来は「吾が名を呼べ」と霊の乳房を与え給う。至心不断に、御名を称えて、心の鏡が浄くなれば、如来の実在がハッキリと知れて来る。いつでも如来は心の鏡に映る。一心に念仏すれば、業障は薄らぎ、心の鏡は次第に研かれる。
安心とは自分の心に、如来を安置する事である。この心は、大きな心をいうので、五尺の身の小さい心ではない。心には地獄、餓鬼、畜生等いろいろある。神の心もある。如来を尊べば、自分も尊くなる。人の心は、縁に触れては、鬼とも仏ともなる。常に念仏せば仏心となる。それが習慣となり、どこでも如来と離れぬ様になれば、神聖、正義、恩寵等の徳が自然に具わる。道徳の上に神聖、正義の父の徳が常に見ており、恩寵なる母の徳か常に側を離れないから、浄き行いができるのである。如来を尊く思えば、思うほどよろしい。無上の尊敬を献げる事によって、距たりができ、愛によって、如来を離れぬ。この二つの調和を得る事が大切である。
極楽は無漏、無生の国、煩悩は輪廻の因である。
第三日
南無とは、如来の光明中に、自分を投げ込む事である。そうすれば、如来の光明に温められ、霊化される。
念仏する時の、心の構え方
活きてまします如来様が、今、わが真正面に在す事を信ぜよ。これを仰信という。心の鏡が研けると、如来の実在が知れる。これを証信という。信仰の目的は、如来の光明中に生まれて、完全なる人格となるにある。一切衆生と共に往生したいと願え。
心に如来を安置するを安心という。所求とは、心の安住所を確かに定める事である。如来は心の住所を定めて下さる。
世の中に我がものとては無かりけり
身をさえ土に返すなりけり
肉体の衣食住が豊でないと賎しくなるように、心も安住する所が無いと不安である。立派な家の子も、初めは母の懐住居である。信仰の初めも、お慈悲の懐住居である。信仰なき人の心は、常に六道を輪廻し、帰るべき家がない。信仰により、如来より永遠の安住所を与えられねばならぬ。娑婆を忘れて、南無阿弥陀仏と念ずれば、浄土へ帰らせて頂ける。
この宇宙は、大荘厳の極楽世界であるけれども、人間の業識から見れば娑婆である。この身のために、苦楽、浄穢、寒暑などを感ずる。心が永遠の安住所を得れば、六道輪廻を免れる。
信仰の初めには、肉眼を開けば、娑婆が見える。目を閉じて念仏すれば、大光明中にある。かかる人が死ねば浄土ばかりとなる。
念仏には請求の念仏、感謝の念仏、咨嗟の念仏あり。
請求の念仏とは、如来よ我を救い給え、我を育て給えとの願いを以て申す帰命の念仏である。まだ霊的満足を得ていない。
感謝の念仏とは、至心に念仏した結果、幾分願いが満され、感謝せざるを得ぬ思いで申す念仏である。
咨嗟の念仏とは、初め想像もできなかった広大無辺なる念仏の功徳を感じ、感謝の思いを越え、表現の言葉もなく、ただ阿弥陀仏を仰ぎまつりて、御名を称えまつるより外なき念仏にて、六字分ならず、歌うが如く、歎ずるが如く、感極まりて長く曳く。浄土の菩薩の念仏は皆これである。真宗の和讃の間に称える、あの引っ張る念仏は、このまねごとである。
〈つづく〉