光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.49 乳房のひととせ 上巻 講演 1

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その六 講演 大正9年3月7日午後 京都市田中大堰町の中井宅にてなされた弁栄上人の講話

宗教の意義 序論

宗教には学説と実行との二面があります。学説ばかりでは心の満足が得られません。学説は信仰を呼び起すたよりとなりますが、宗教心を満足さすものは、如来恩寵の光明であります。

太陽あるも目なくば見えず、目あるも光なくば見えません。如来は心霊界の太陽で、信仰は如来の光明を見る目であります。水月感応といって、月には感じさせる力があり、水には受ける力があるから、月影は水に映るのであります。如来の光明は、信仰の水ある処に宿ります。神の実在を、どんなに巧に書いても、神ができたり、否定したからとて、消えるものでもありません。支那で神といえば、「鬼神」の事でありまして、死人の霊をいいます。これを宗教の本尊と誤解されぬように、「仏」という字を用い、「如」とも書いて、神という字を用いなかったのであります。如といえば、哲学的に聞えますが、宇宙一ぱいの実在なる霊体を如という。それから現れ給う故に如来と申します。如来は宇宙全体を表し、大我ともいいます。大我に対して吾々を小我と申します。大我と小我とは精神的に合一する性質のものであります。吾れ生きるに非ずして、絶対なる大我に因て活かされているのであります。

小我の中心と大我の中心との関係

仏教では、人の心を四つに別けます。

  1. 肉団心 この心は肉体の一部分であって、生理学的、解剖学的に作用する心であります。
  2. 縁慮心 此れは心理学的心であります。如何なるものも、心を害する事ができません。心は広くして、思う広さにはてし〈果てし〉ありません。此れは縁に触れて思う心であって、現在的であります。
  3. 集起心 此れは過去の経験が集まって働く心。歴史的であります。
  4. 真実心 これが心の本体であります。真実心は宇宙と一体のものであって、分つことができません。凡夫の心も、真実心なくては働きません。観念の本体であって、物を思う事のできるのは、真実心があるからであります。禅宗では、この心を発見するのを見性成仏といい、大悟ともいいます。真実心はできたり消えたりするものではありません。これは哲学的、宗教的の心であります。

心は如何に遠きものをも、近きものをも、同時に思う事ができるのは何故かといいますと、心は行ったり来たりするもので無いからです。行ったり来たりするものは、遠近の二つのものを考える時に、時間的に差がある筈であります。心は時間、空間を超越したものであります。

〈つづく〉

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