光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.50 乳房のひととせ 上巻 講演 2

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その六 講演 大正9年3月7日午後 京都市田中大堰町の中井宅にてなされた弁栄上人の講話(つづき)

〈宗教の意義〉 本論

西洋の骨相学の書に、眼から下は天性(本能性)を、ひたいから上は霊性を、その中間は理性を表すといっています。それは事実であるか、どうかは兎も角として、今しばらくこの名を借りますと、天性は動物共通性、理性は人間特有性、霊性は神人共通性であります。天性は生理性ともいって、肉体の生きるために欠くべからざる働きを持ちます。理性は人間以外の動物には有りません。これに認識理性と実行理性とあります。認識理性は物理、化学等自然現象を理解する心であり、実行理性は宗教、道徳、法律などを実行する心であります。

動物は実行理性を持ちませんから、何をしても法律上の罪を造りません。かわいという心は、人にも動物にも有りますが、かわいそうという心は、人間にのみ有って、他の動物にはありません。これは実行理性から来るものでありまして、人は弱き者、病める者を労るけれども、鳥は死せんとする子を捨てて顧みません。

理性は本来、人間に備わっていますが、教育によって開発し、自ら努力して研かなければ現れません。文明は教育から生まれます。

霊性は宗教的の心でありまして、神と人とに共通の性であります。宗教は学問的に色々と研究されています。どんなに詳しく研究しても、文の意味を理解するに止まるならば、実感とはなりません。理性は自然界の事を、霊性は心霊界の事を知る目であります。釈尊が霊界の事を説き、それを文字にあらわしたのが経文であります。

霊界がもし理性で解るならば、釈尊は山に入って修行せずに、当時の学者を集めて、研究されたでありましょう。その当時、霊魂の滅と不滅については、何れとも定っていませんでした。太子は精神界の事に就いて、日夜御心を痛めておられましたから、御父なる王様を初めお側の人達は、太子を諫めて申上げました。「まだ学説として決定せぬ問題のために心を労するよりも、現実の快楽を求め給え」と。けれども、太子は、それを聞き入れられずして、暗きが故に、真理を発見せんとするのだといって、ひそかに宮を出で、山に入って道士となられました。まず百歳に近きアララ仙人に就いて霊界の事を研究されました。仙人の導きにより、太子の心は宇宙精神と一体となり、次に色(物質界)と一体となられた。アララ仙人が一生かかって得た悟りを、太子は僅かに七日で体得なされたのでありました。太子は、それに満足せず、ウドラ仙人を訪ねられました。アララ仙人は別れに臨み、「もしあなたがこれ以上の悟りを発見されましたならば、第一番に私を済度して頂きたい」と頼まれた。ウドラ仙人の処でも、これ以上の悟りが得られませんでした。それで太子は自ら、6年の苦行を積まれることになったのであります。最後に65日の三昧に入り、その四十九日目に十魔を降し、天眼明を得、宇宙を空間的に知り尽し、次に宿命明を得て、時間的に超越されました。12月8日の暁方、明星出でし頃、無明生死の夢から醒めて、覚者即ち仏陀となられたのであります。

〈つづく〉

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