光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.52 乳房のひととせ 上巻 常習犯

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇常習犯

神通力の事は、お経の中に、沢山説かれてあるが、私はそれ等を事実であるまいと思っていた。しかるに弁栄上人遷化の後、熱烈なる信者の中に、天眼、他心、宿命等の神通力が現れたのを知り、弁栄上人は、どんなに吾々の心の底まで見破って居られたかとはずかしい思いをした。

多くの講演は、弁師のひとりごとで有って、闇夜に鉄砲、当ったようで、ききめが少ない。雄弁は銀にして、沈黙は金だといわれる如く、説教師に無駄口が多い。しかるに、弁栄上人のお話は、聞いて居ると、もどかしいけれども、書き留めて味わえば、慈味尽きず、歳と共に光を増す思いがする。その一言一句が、胸に響き、胆に滲み、啓蒙、恐縮、驚嘆、信頼、帰依、敬慕の情が油然として湧いて来る。

〈大正9年〉7月6日。「千葉浄光が来たから、すぐ来てくれ」と、恒村さんから使いが来た。それっ逃がすな、と自分は早速馳けつけた。彼を召捕れとの布令が、既に「ミオヤの光」誌上に発表されて有った。彼は、まだそれを知らぬらしかった。

恒村さんは、彼を珍客待遇で、二階の客間に押込めていた。私共は早速、九州に居られた弁栄上人へ、いかが致しましょうかと電請した。夜11時頃まで待ったが、返電は来なかった。


×  ×  ×  ×  ×

大正6年4月、布鎌の教会所が落成し、まだ主任が決定せず、撰定中で有った。十月頃、突然、千葉浄光と名乗る者が来り、世話人に懇願して、教会に起居〈日々の生活ができるように〉を乞うた。11月15日、布鎌教会の世話人が千葉氏を連れて五香の善光寺を訪ね、弁誡師を通じて、弁栄上人へ、「彼を布鎌教会の主任として常住せしめられたい」と願い出た。

上人はそれを許されなかった。弁誡師等一同は千葉氏に精進修行を約せしめ〈約束させ〉、上人の黙許〈黙認〉を得て、教会に住居せしむる事とした。

その頃、上人の仏画会が成立し、見本数枚が布鎌の世話人の手許に在った。千葉氏は世話人を偽き、それを持ち出し、売却して姿を消した。

上人が布鎌より6、7里離れた流山町の大塚由蔵という信者の宅に留錫中、布鎌の世話人、野崎明証という老人が馳せ来り、千葉の犯罪を述べて上人に謝罪した。上人「はぁ、そうであったか。私が初め彼に遇った時、どうも彼の目つきが悪いから、いけないと思った。是非にというから、そのままにしておいたが、矢張駄目で有ったか」と仰せられた。(以上弁誡師より)

この事が「ミオヤの光」誌で、全国の読者へ知らされてあった。


×  ×  ×  ×  ×

千葉氏を守る恒村さんは、さぞ困っておるだろうと思い、自分は朝飯を済ますと、すぐ加勢に行った。恒村さんは、早や千葉氏に召捕状を示して、彼に謝罪を勧めていた。彼は涙を流して悔い「今、上人に謝罪しても赦して下さるまいから、2、3年諸国を巡り、道のために少しでも働き、めぐり会った処で、上人に謝るつもりです」と告白した。それで自分は彼を九州まで護送し、上人にお赦しを乞うてやろうとして、その仕度に帰った。しばらくして、恒村さんが急ぎ来り「今、上人から此の返電が有った」とて、それを見せられた。

「すぐ千葉県の警察署へ通知し、京都の警察へ渡せ。頼む。今。」という、厳しい電文であった。もしこの電報が、昨夜のうちに来ていたならば、彼は今頃、警察の手へ渡されていたであろう。吾々は涙を流し懺悔して居る者を渡すに忍びず、今一度、彼の決心を聞いた上で処置をつける事にした。

一、男らしく罪に服するか。
二、九州まで詫びに行くか。
三、近日、上人は京都へ来られるから、それまで待つか。

この三つの内、何れを望むかと彼に尋ねた。彼は第三を撰んだ。当麻山で念仏して待ち、22日の夜行で、こちらへ帰り、上人にお詫びをするといった。それで私共は15円の旅費を与へ、夕5時の汽車で京都を立たせた。

24、5日頃(弁栄上人は25日朝、御入京)、彼を恒村医院の前で見たという人があった。けれども、彼は、とうとう上人の前に出て来なかった。その後、今に彼の消息を聞かぬ。

吾等は千葉の一件を上人へ詳しく申上げた。

上人「彼の如きは常習犯である。捕われた時に流した懺悔の涙は、ほんとうで有ったであろう。けれども自制力なき彼は、誘惑に打ち勝つ事ができず、また罪を犯すのである。警察へ渡すのは可愛そうであるが、お慈悲である。警察の保護により犯罪の機会が与へられぬ故に、社会の為めになり、また彼の為めにもなるのだ。」と教えて下さった。私共は、なまじっか哀れみの心を起して、上人の命令に反き、彼に罪を重ねさせ、従って、社会に迷惑をかけた事であろうと済まなく思った。

〈つづく〉

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