乳房のひととせ 上巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇三 黒谷の別時
〈大正9年〉6月1日の午後、上人様は入京された。一同は喜色満面でお迎え申した。この別時中、上人は恒村さん方で宿泊される事になり、夜のお念仏と御説教もお宅で催された。
二日は朝から黒谷の瑞泉院で別時があった。自分は昼と晩の弁当を持って別時参加し、夜まで通した。
滝見の観音様
日中の別時を終え、御宿舎なる恒村さんのお宅へ帰られてお風呂を召された七時頃、湯上りの上人様に私はお願いした。
「紙で観音様を描いて頂きたい。人がそれを見て、信心を発こすようにして頂きたい」といって画撰紙を出した。
上人は半紙をちぎり、お口ですごき〈整え〉筆の如くにし、それに墨汁を着け、観音様の御眉、お眼、お顔と細い線から書き初め、次第にお衣や岩、滝などに及ばれた。紙に墨汁をとっぽり含ませ滝を描かれる時、薄墨のしづくが一点、観音様のお胸に落ちた。しまったと思ったら、上人様は、それをお衣の紐の飾りになされた。うまい事をなさると感心した。巻いた画紙を開きながら、上部より描き下し、滝つぼのあたりに及ばれた時「少し紙が足りなかった」とささやかれた。最後に筆を執り、
墨の画に写せる滝の音までも
甚深微妙般若波羅密
と賛を入れられた。
自分は上人様に乞うて書いて頂いた書画は、この観音様とお名号の二つだけである。人はよく阿弥陀様を描いて頂くが、自分は上人様が描かれるようなお顔でなく、もっともっと美しい、ほれぼれする本尊様がほしいと思っていた。それから間もなく上人様の御遷化に遇い、本尊様を一つお願いしておけば良かったと後悔した。幸に此の観音様は、何ともいわれぬ美しい有難い御相好で、お慈悲と威権とを具えておられる。『人生の帰趣』〈初版本〉の口画になっている。上人の御肖像の次にある大きな滝見の観音様がそれである。
上人様は此の観音様の円満なる御相好を拝ませて、コンペイ糖のような私の心を和らげてやろうとのお心だと有難く頂戴している。
〈つづく〉