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聖者の偉業

聖者の俤 No.58 乳房のひととせ 下巻 聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 2

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その八 別時中の法話〈つづき〉

(二)如来の三縁 (二日午後の説教)

親縁、近縁、増上縁の三縁により衆生は救われる。衆生、行を起して、口に仏名を称うれば、仏これを聞き給う。身に恭礼すれば、仏見給う。衆生、仏を憶念し奉れば、仏もまた衆生を憶念し給う。

吾等、仏を念ずれば、仏はよく知り給えども、吾等は煩悩に汚されて、親の顔を拝む事ができない。念仏すれば一々お答えがあるけれども、この耳には聞こえないが心に感ずる。然らば、どのように私どもの心に、そのお答えが感ずるか。心ここに在らざれば、見れども見えず、食えども、其の味を知らず。今あそこに小鳥が啼き、松風の音が聞こえているけれども、よく気をつけぬと聞こえぬように、如来のお答えが私共の心に向ってなされているのであるが、気をつけてそれを受けなければ聞こえぬ。誠心でなくては感ぜぬ。形ばかりでは駄目である。真実に生きてまします如来を信じて、至心に恭礼すれば、仏は見て下さる。念仏にも礼儀にも至誠心と偽りとがある。また、この二つの何れでも無いのがある。それは無意識、習慣的のものである。

何が近いとて仏と衆生ほど近いものはない。これを近縁という。何が強いとて、如来の増上縁ほど強いものはない。信仰の進むに連れて、それを強く感ずるようになる。別時念仏は信仰心を養い、力を与える。如来の命に従って働けるようになる。犬猫は生かされているけれども、つまらぬ生き方をしている。それでも自殺するものは無い。人と生れて人生の意義を知れば有難く思わねばならぬ。我等の身も心も法身の大み親より受けたもので有って、吾々は此の世界へ修行に出されたのである。報身如来の光明を受けて完き人と成り得るようにできている。しかるに凡夫の心は、四顛倒、八顛倒しているから此の真理を知らぬ。犬猫は、教育しても真理を悟らせる事ができないから、教育するに及ばぬ。けれども人間は犬猫と異なり、教えれば道理を理解する故に、教育する必要がある。

宗教は内観のものなれば、外観的に科学の力では伺い知る事ができない。人間は何の為に生れて来たかを、凡夫は知らない。此の世は娑婆といって、勘忍土である。何事も勘忍せねば通れぬ世界である。勘は形の上で忍ぶ事であって、寒暑、飢渇等を忍ぶ如きをいう。忍は精神上の忍耐である。忍耐して仏道を修行してこそ此の世に出た甲斐がある。内面的に大み親と結びを付けて、修行に出て来た事を覚らしむれば、勇ましく修行ができる。何事も苦しまねば有雑さがわからぬ。み親は何故に衆生を自分の側に置いて楽をさせぬのであろうか。側に置けば良いものにならぬからである。人の子も、生れてから苦労せず、食物も衣服も住居も十分ならば、親の有難さを知らぬ者になる。常にかしづかれては召使を思いやる心も起らぬ。愚痴、嫉妬、怒などの心の錆が取り去られると苦が無くなる。

忍に強忍と安忍とある。侠客が手を切られても忍ぶは強忍である。無実の罪を着せられても、神しろしめすと心安らかに忍ぶは安忍である。苦を忍ぶは易いが、快楽に耽らぬように忍ぶは難い。

昔、波羅奈国に迦梨王という王様がいた。王様はある時、大勢の家来や后や侍女等と野山に遊んだ。王様は遊び労れて眠っている間に、女共は王様の側を離れて散歩し、忍辱仙人が端坐思惟しているのを見、敬いの心を起し、仙人をめぐって説法を聞いていた。王は眠りより醒めて身辺を見るに誰もいない。怒りを含んで歩みを進めた。女に取巻かれた行者を見て、彼は女共を誘惑したと思い、「汝は何者であるか。何の修行をしておるか」と尋ねた。仙人は忍辱の修行をしていると答えた。王は剣を抜いて「汝、もし忍辱を修行する者ならば、我は汝を試そう。よく忍ぶや、否や」といい、仙人の両手を切った。仙人は、じっと忍んでいた。次で王は仙人の両脚を断ち、耳や鼻を截ったけれども、仙人は顔色さえ変えなかった。王は驚き仙人に問うた。
「汝は何を以てそのように忍辱ができるか」
仙人、答えて、
「汝は女色の故を以て、刀にて我が形を切る。吾が忍は大地の如し。我仏と成らば、先ず慧刀を以て、汝の三毒を断たん」

この忍辱仙人とは釈尊の前身である。

〈つづく〉

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