光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.60 乳房のひととせ 下巻 聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 4

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その八 別時中の法話〈つづき〉大正9年6月3日朝 黒谷光明寺塔頭瑞泉院にて

(四)弥陀教義に就て

十二光仏の無量光、無辺光、無礙光は仏身論である。これを第一編として良い。即ちこれにより、如来の体、相、用が示される。これは客体の形面上論である。

清浄光、歓喜光、智慧光、不断光は心理論である。これは直接法である。この四光により、吾々の心は変化を来たす故に、直ちに其の効果を知る事ができる。即ち至心に念仏すれば、清浄光に照らされて心は浄くなる。歓喜光によって嬉しくなり、智慧光により仏智が現れて愚痴が無くなり、不断光により人格が霊化される。

難思光、無称光、超日月光仏は光明生活実践の道程を示す。これは成仏の倫理論である。

無対光と炎王光とは個々についての心理論である。炎王光は消極的にして、吾々の心の汚れを除く。無対光は積極的にして。光を与え、終局には成仏せしめる。

(五)南無阿弥陀仏に就て

安心の南無阿弥陀仏と起行の南無阿弥陀仏

安心の念仏

 

安心とは心の据え方、安置心である。如来より外に頼む方なしと定め、如来に帰命信頼すれば永遠に救われるというは安心である。南無とは印度の言葉にて、帰命と訳す。帰とはかえる、命とはいのち。聖道門の解釈によれば、本覚の都より、ひょろりと迷い出たものが、悟れば元の都に帰るという。帰はとりつく意、嫁入りすると夫に取り付く、如来のみもとに嫁入りする事であって、命をかけて如来に取り付くのが帰命である。お釈迦様の仲人で如来と結婚する事である。真宗で行う帰教式はこれに当る。自分が如来のものとなれば、昨日までは一人者であったが、今日からは自分勝手ができない。如来の顔を汚してはすまぬ、という事になる。斯くの如く、心の置き所の定まる事を安心決定という。如来を「心のつまにかけぬ日は無い」いうのが信者の姿である。教えを聞いて、すぐ如来にすがる人は幸である。浅ましい事には凡夫は本仏に帰依せずして、信仰の本尊は諸仏や菩薩で停まる。諸仏、菩薩は本仏の分身であって、衆生を本仏に帰依せしむるように活動なさる方々である。
如来の光明、仏智の顕現した所が極楽である。
起行の念仏

 

安心が定まれば起行の念仏である。念という字は、人と二と心との組合せであって、二人の心が一つになる意を示したものである。煩悩は黒い炭のようなものであって、これに如来の慈悲が燃えつくと火になる。今まで怠けていた者が働き出す。もはや自分一人でない。如来と共に在ると思えば、活動せずにおられぬ。煩悩の炭に信仰の火が燃え付けば、煩悩即菩提である。これが起行の念仏である。
信仰が活きて来ると、光明生活となる。これと信仰生活とは似ているが、信ずる事により、如来の御力をそっくり受けるのが信仰である。慈悲よりいえば、信仰生活である。信仰が芽生えると生活期に入る。如来の光明を蒙れば、信仰は活きて光明生活となる。米は俵の中では生きているけれども、生活期に入っていないから、寒暑に障りなく、水や日光にあわずとも生命に別条が無い。人も胎内に於て、生活期に入れば、母体が冷えると死ぬ。米が苗代で芽生え、生活を初めると、日光や水の調和が悪いと育たぬ。私共が精神的に活きるためには、如来の光明を受けねばならぬ。肉の生活には、少くとも衣食住の三つが必要である。毎日の大事は食にあり、毎年の大事は衣服に在り、一生の大事は住居に在る。信仰生活に於ても、心霊は衣服を着けねばならぬ。生れた子に衣を着せぬ親は無い。人間の親でさえ、その通り。まして心霊の親様に於ておやである。信仰が生きると、その程度に衣を着せて下さる。人も胎内では、衣の必要は無い。皆さんは、今どんな衣を心に着ていますか。
人の子は生れると先ず乳を飲む。歯が無いから、噛んで味の有るような食物を与えられぬ。それで母が色々の食物を食べて乳に変え、子に飲ませる。乳を飲ませても、飲まぬ児がある。私が信仰の乳を飲ませても、飲まぬ人がある。胎児の口は動かぬ。信仰生活に於て、乳を飲んでいる時代には、乳の味を知らぬ。腹がすけば、生理的に声を立てて泣くばかりである。

〈つづく〉

  • 更新履歴

  •