光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.61 乳房のひととせ 下巻 聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 5

乳房のひととせ 上巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その八 別時中の法話〈つづき〉大正9年6月3日朝 黒谷光明寺塔頭瑞泉院にて

(五)南無阿弥陀仏に就て〈つづき〉

世間には形式的の礼拝もせずして、一切経を持っているといって仏教者を気取る者がある。そんな人は、床に飾られた人形のようなものだ。飲まず、食わずして生きているような顔をしている。十年経っても、元通り、子供顔である。大きくならぬ。一切経を読むばかりの人は人形的信仰である。いつまで経っても育たぬ。

信仰が生きて来れば養分がいる。衣もいる。食物として、皆様は心に何を食べさせていますか。空腹を感じませぬか。人形的信仰ならば空腹を感じませぬ。また胎児のような信仰も同様です。キリストは「人はパンのみにて活くるものに非ず」といっています。仏法は真理をよく料理して吾々に食べさせる。その味わいは法喜禅悦(ほうきぜんねつ)である。皆様は家をお持ちでしょう。家の無い人は乞食です。人から「あなたのお家はここですか」と問われたら、すぐ、どこそこだと答える事ができましょう。乞食のように定まった家を持たぬ時は、なかなか答えられませぬ。もし「あなたの心の住家は」と聞かれたら、皆様は何と答えますか。からだの家は有りますが、心の家はまだ有りませぬと答えねばならぬようでは、たとえ金殿玉楼に起き伏すとも、心は三界流浪の哀れむべき者であります。信仰から見れば、貧愚にして福徳なく、智恵なき人である。

世の中にわがものとては無かりけり
身をさえ土に返すなりけり

一時の借り物は返さねばなりませぬ。さて心の住居を定めねばなりませんが、永生の住居はありますか。「今は無いけれども、死ねば何とかなるだろう」というようでは、家なき乞食が「日が暮れたら、何とかなるだろう」というに等しい。そんな事では、三悪道の縁の下で眠らねばならぬ。

世尊は如来の代わりに此の世に出られ「三界は吾が家なり。その中の衆生は皆、わが子なり」と仰せられた。

人は肉体の衣食住のためには戦争までするけれども、心の糧を求め、大騒ぎをして、ここへ押しかけて来ぬのは、永生を願わぬからである。

心の住家はどこか。安住心ができましたか。家のある人は、家に帰れば安心する。心は身よりも激しく飛び廻る。その心の永住する家があれば、安心して活動できる。然らば皆さんの心は、どこに住んでいますか。私は大み親から心の住家を与えられています。称名すれば、このまま大光明中である。それは無限に広くて、安らかで無量無辺の荘厳世界であるが、信仰の赤子には見えない。赤子には、さっぱり解からぬながら、母の愛の懐に在る。信仰できれば、称名する事により、母の懐住居に気付く、なお一層育てば、荘厳極まりなき蓮華蔵世界なる事が知れる。初めは何も見えなくとも、一心に如来の実在を信ぜよ。信仰できれば、死ねば夢醒めて光明中に生れる。善導大師は臨終の有様を述べて「手を合せ、如来を拝み、頭を下げる時は娑婆なれど、み名を称え終り、頭を上ぐれば既に浄土となっている」とお示し下ってある。ここは元より浄土であるが、己が業障のために今は娑婆と見えているのである。

〈つづく〉

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