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聖者の偉業

聖者の俤 No.64 乳房のひととせ 下巻 聖者ご法話聞き書き(別時中の法話) 8

乳房のひととせ 下巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇聞き書き その九 別時中の法話〈つづき〉

大正9年7月25~26日

(三)神聖、正義、恩寵に就いて〈二十五日夜のお話〉

宗教の客体を如来といい、神といわぬ。支那では放人の霊を鬼という。鬼火とは幽霊の事である。偉人の霊を神という。されば仏教が支那へ渡って来た時、死人の霊と宗教の本尊とを取り違えてはならぬという用心から、宗教の客体(本尊の事)を如来と訳した。宇宙は不可思議なる活ける霊体にして、これを「如」という。宗教の本尊はこの如より現れたものなれば如来という。

如来と我等との関係。身の行いの命令は心から出る故に、罪を受けるのも心である。我々が棒で人を打った時、手や棒に罪は無い。行為の命令者なる心が罰せられる。人格の高い人は、身体を高等に使う事ができる。私共の身を支配する心が有るように、宇宙にも、それを支配する精神がある。ポールゼン曰く「われらは彼を見る事ができぬけれども、彼なくして我は無い」と。宇宙の中心なる彼を如来という。如来は一切衆生の本源である。如来を信ずる事により、宗教は成立する。

科学は仮定の上に立つけれども、宗教は仮定を許さぬ。宗教は仮定、想像、空想でなく、絶対の真実である。如来有りや無しやの理窟をいわず、如来を信念すれば、心は変わって来る。太陽の光線は諸の有機物を生かす如くに。弥陀の光明は人の心霊を活かし給う。オイケン曰く「宗教は実感である」と。信仰すれば心は活きて来る。人格が改造される。これが如来の用(働き)である。仏教にいう火大は宇宙に充満している。野蛮国に火は少ないが、文明国に火は石炭や油に燃えついて大きく現れている。如来の光明は炭に燃えつかぬが、人の煩悩に燃えつく。この火が燃えつくと、地獄におちる筈の悪人が浄土に生まれる善人となる。

終始一貫してその主張の変わらぬものは真というてもよい。無神論者が無常を感じて、信仰に入れば、無神論をいわなくなる。無神論は真実でない。

無礙光は道徳秩序即ち解脱霊化の用を説く。太陽光線の化学作用に相当するものは無礙光である。成仏するには真理の道を歩まねばならぬ。人には煩悩が有って自由でない。煩悩に克てば自由の人となる。聖人と成るはなかなか難しい。神聖、正義の父と恩寵の母とが吾々の心を育てて下さる。成仏への一定不変の大道即ち仏道をアノクタラ、サンミヤクサンボダイという。如来は道徳の道を照らす。仏道は神聖にして犯すべからざるものである。

神聖とは行為を照鑑する智慧である。この智慧に照らされると正見が生まれる。正見の人は決して悪い事をせぬ。知らずして悪い事をするとも、それに気づけば、すぐ懺悔して改める。

正義は正善を取り、邪悪を捨てる。正見は眼の如く、正義は足の如し。如来の恩寵に育てられると正義の足が強くなり、人生向上の一路を勇み進むようになり、仏の種が次第に実る。

(四)念仏三昧の心〈二十六日朝の説教〉

宗祖の道詠
 阿弥陀仏と心を西に空蝉の
  もぬけはてたる声ぞ涼しき

騰神踊躍入西方〈善導大師『往生礼讃』、意訳「阿弥陀さまへの思いを盛り上げ、踊り上がるほどの歓喜の心を起こし、阿弥陀さまの西方世界へと入っていきましょう。〉

念仏三昧の心は如来より出る心である。送風機の風は電力で起こされるように、吾等の念仏も如来の霊的電力に満たされた結果起こるのである。自分の力では念仏にならぬ。吾が身口意を如来に献げた時の念仏は如来より出るのである。

上の道詠の「西」は如来の事である。「うつせみ」は移す心である。蝉が殻から出て、枝で鳴く如く、心がこの肉体から抜け出て、極楽にある姿を詠んだものである。念仏も初めから、このようにはならぬ。蝉が土の中にいる間は、ぬけ殻で無い。吾々も初めの間は抜け殻になれぬ。自分が仏に成るのでなく、仏が自分に成って下さるのであるが、初めの間、それが解らぬ。念仏していれば知れて来る。

世間は忙しいけれども、早く心を如来に向ければ、如来と共に世に処して、いと安らかに活動ができる。念仏三昧によりかく成る。

ロンドンは非常に濃い霧の、よくかかる町である。それに煙突から出る煙が甚だしいので、空が少しも見えぬ日が多いそうである。それにも拘らず、季節になれば凧を揚げて楽しむ者が多い。霧や煙のために凧は見えぬけれども、今日はよく揚ったといって悦ぶではありませんか。空の凧は見えぬけれども、よく揚った時はその糸に手応えがある、至誠心の念仏は称名の風に任せて、弥陀の中に空高くあがる。心の糸を有らん限り弥陀の中に空高く投げ出せば、わが胸中に妄念や雑念の糸が無くなり、自分はもぬけの殻となる。その時は無我の状態である。念仏三昧の風に吹かれて、心の凧が高く揚がり、強く糸の引っ張った有様を善導大師は「神を騰げ踊躍して西方に入る」と讃してある。如来が見えずとも、お慈悲の風に誘われて心が弥陀の中に高く揚がると、念仏に手応えがある。念仏三昧は入西方を知る方法である。悟れば忙しい世に処して、心は狂わず、西方に入って裕々と暮らされる。而して如来より無限の力が与えられる。

〈つづく〉

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