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聖者の偉業

聖者の俤 No.67 乳房のひととせ 下巻 7 随行記 1

乳房のひととせ 下巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇7 随行記 大正9年7月27日~8月24日〈つづき〉

(二)工場の説法

 国府津〈神奈川県小田原市〉あたりの景色はいつ見ても良い。汽車が箱根の山渓を抜け、富士の霊峰をあとにして海岸に出た所が国府津である。太平洋の雄大なる景色が老松の間に見え、真夏の燃ゆる太陽も今はまだ涼しく旭日の爽快味を覚えしめるのであった。
 お出迎えに来ている筈の松崎氏は見えぬ。しばらく待ち、電車に乗った。小田原で人力車を一台雇い、それに皆の手荷物を乗せ、一里余りも共に歩み、松崎さんの庵室をさがし廻った。太陽が高く上るに連れて暑さは増し、汗が流れ、労れて来た。道をたずね尋ねて、やっと庵室に辿り着いたが、松崎氏と出違いであった。留守番の曰く、「小田原の会社へお迎えする筈であった」とて、こちらに何の用意も無く恐縮の体であった。それで吾々は再び小田原へあともどりをした。
 紡績会社に着くや否や、上人は早速講演を初められた。私共お供の者は前列に着席。田舎の小学校にあるような粗末な共同机が列べられてあった。自分は早速、お話の要点を筆記し始めた。眠気が甚だしくてペンは進まぬ。知らぬ間に頭が下り、机でコツンとおでこを打つ。びっくりして、はね上り、耳をそばだて、目を無理に開いて文字を書いたが、いつの間にか醜態を繰り返すのであった。しかるに上人はお元気で一時間ばかり「宗教の意義」に就いてお説教をなされた。自分は未だ経験した事なき苦しい聴聞であった。
 それから私共は石原という社員(技師長?)の宅で昼食の供養を受けたのが一時過ぎであった。一同はまだ朝食をしていなかったのである。食後、そこでも御法話があった。上人の命令で自分はお話の前座を勤めた。
 四時頃、小田原を立ち、汽車で国府津へ行く筈の処、電車に乗りおくれそうだとて、松崎さんは自動車を呼んで来た。これは自分が、自動車に乗った初めての経験であった。夕、六時頃の汽車で国府津を立ち横浜へ向った。

(三)横浜の一夜

 横浜に着き、松崎さんは松井、徳永の二人を連れて内海健郎さんのお宅へ行き、自分は上人のお供をして大西病院長の久賀六郎博士のお宅で泊った。久賀氏の宅は久保山の中腹にあり、横浜の町が眼下に見え、良い眺めである。客間と仏間の続いた二階に案内された。先ず仏前に礼拝し、それから挨拶を交わした。久賀夫人は観音さまを信仰し、深く上人に帰依している篤信家であるが、博士は上人に初対面のようであった。続いて自分は久賀さんに頭を下げた。「オウお供の小僧か。次の間で控えておれ」とでもいいそうな塩梅で、挨拶らしい挨拶をしてくれなかった。木綿の袴をはき、十五銭の安下駄を玄関に脱いで来たのだから仕方がない。まだ人の心の奥が見えない現科学の心酔者達には無理がない、と悪く思わなかった。上人はそれを見兼ねたものか、久賀氏に「この方は中井さんといって京都帝大の先生で、この度、随行されました。」といわれた。久賀さんは改めて、丁寧に挨拶を仕直した。
 やがて夜の幕が下り、町は一面に火の海となった。星空を眼下に眺めるようである。キラキラ瞬く幾万の灯火。実に壮観だ。上人「お浄土の荘厳のようですね。人生もこのように超越して見なければ全体が解りません。あの火の海に沈んでは、この壮観を味わう事ができません」といわれた。海や町は墨絵の如く、月の光に照らされて夢のようであった。この荘厳中にあり、上人のお側で、ひとり慈訓に接するを得た悦びを思えば、今に感概無量である。目をつぶれば当時の光景、昨夜の如くである。
 信者の方々や招待されたらしい人々は次第に集まり、お念仏が始められ、説教を拝聴した。上人の仰せで自分はまた前座をつとめた。
 夜は更け、客は去り、上人と院長さんと自分の三人が涼風に吹かれて一時頃までベランダで話し続けた。
 上人は久賀さんに向かい「念仏は峠を越せば、あとは楽です」といってお念仏を勧められた。
 久賀さんは真言宗の信者であり、正式に得道式を受けた居士だという事であった。
 お話は尽きぬけれども、寝む事にした。上人は枕に就かれるや忽ち高いびきである。けれども自分はなかなか眠れない。神経が労れ過ぎたのであろう。岐阜の別時や夜通し汽車中の騒ぎ、小田原の徒歩と説法聴聞、それからこの夜更かしなどで随分鍛われた。元気な若僧でも上人のお供をすると一週間は続かず、逃げ口上を作って避難するという事である。ほんとうに、そうだと思った。

〈つづく〉

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