光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.68 乳房のひととせ 下巻 7 随行記

乳房のひととせ 下巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇7 随行記 大正9年7月27日~8月24日〈つづき〉

(四)当麻山へ

◯七月二十九日。横浜の一夜は明けた。朝の勤行は始められた。自分は木魚をわが頭と思い、小我を打ち壊して大我に甦れと木魚をたたき一心不乱に念仏申した。
 朝食後、徳永、松井の二人は電話で呼び寄せられた。
そして私共は終日、念仏と聴聞で過ごした。
 夕食を頂いてから久賀氏邸を辞去し、神奈川のかやき屋という呉服店へお供した。松井君は気分が悪いとて、医者を呼んで貰い色々厄介になった。礼拝儀を称え、念仏三昧の後、家族や店員達にお説教があった。この家の人達は上人の古い信者であった。
 夜晩く上人のお供をして、笹本上人の慶運寺へ行って泊った。
 三十日。上人は笹本師を連れて東京へ行かれた。私共は松井君病気のため、寺で御厄介になり、午後一時過ぎの汽車で東神奈川駅から当麻山へ行く事にした。そして夕の五時頃、無量光寺に着いた。
 光明学園は既に休暇となり、吉田先生は青森県へ帰っておられた。小林先生と十時頃まで話をした。去る一月に私共は当麻山で上人の授戒会に連りしため、学園や土地の人達と既に心安くなっていた。
 七月三十一日。午前三時頃、本堂の太鼓で起こされた。釣鐘が鳴り、その音が森を越えて村中へ響き渡り、村人達に起床の時を告げた。このあたりは養蚕が盛んにて、早く起き、蚕に桑をやらねばならぬのである。
 昨夜は蚤のために殆んど眠られず、今朝は早くから起こされた為、日中居眠りが出て困った。けれども有難い事には、お上人様はまだお帰りにならぬ。気儘をしても遠慮が無い。
 私共は小林先生の案内で山葵の沢を見に行った。山葵は清水の湧く、泥気の無い小石混りの沢でなければ良く育たぬそうである。水蒸気の立ち上るこの仙境で、朝の間の一時を心地よく遊んだ。それから寺に帰り、上水の満々と流れる溝を四人して浚った。
 午後、一睡の後、暫らくお念仏を申し、読書や手紙書きをした。夕食後は森を通り抜け、青田の野辺を散歩した。明月は空に澄み、相模川の夜景に風情を添え、心地よき夜であった。
 八月一日。早起きして本堂でお念仏を申した。眠くてたまらぬ。我慢して木魚を打てど、いつしか音は止み、櫓を漕いでいた。本堂から下れば、朝寝坊の松井君はまだ寝ている。自分もまた床をのべて二人は六時まで寝た。朝食後、また寝た。連日の労れで眠りは食物よりも甘く、食昼後も寝た。
◯午後、ナーム、アーミ、ダーブと声高らかに鐘打ち鳴らして村人が念仏しながら葬式の列を組み、本堂に向かって進んで来た。お上人様はまだお帰りにならぬ故、小僧の弁成君が導師をつとめ、経を読み、式を済ませた。自分は学園の二階から風変わりな葬式を珍しそうに見ながら合掌念仏していた。
 夕食後、私共は上人のお帰りを迎えに行った。途中、小林先生のお宅を訪ねた。一同は相模平野を走る一筋の大街道を行く。月に浮かれて松井、徳永の二人は歌う。漫歩は続いた。雲は動く。人影は見えぬ。帰途、小林先生は自家の畑で茄を採って私共にくれた。
◯八月二日。お膳や御飯の上に蠅が群集している。田舎の人には蠅は珍しく無く、一向平気であるが、衛生をやかましくいう文化人や、神経過敏な都会人には、ひどく嫌われる。自分は早速、棕梠の葉で蠅たたきを造り、それを両手に持って蠅征伐を始めた。十分間ばかりで百匹余りも倒した。けれども、どこから補充されるのか一向少なくならぬ。蠅の大軍にとうとう兜を脱いだ。
 夕方から上人を迎えに行った。雨が降り出した。また空しく帰った。
◯八月三日。今朝も寝坊をした。
 十一時頃、上人はお帰りになった。私共は二階から駆け降り、両手を突いて御前に平伏した。
 午後は三時間ばかりお念仏を申した。今日までは、朝寝、昼寝、野遊び、蠅征伐などしていた者が、急に念仏行者に早変わりしたとて、鬼の無い間に洗濯の曲者だとか、猫かぶりだとか思って下さるな。全く偽りなき自然であったのである。上人のお側で幾日行儀正しくしていても、それが少しも窮屈を感じなかった。御威徳により誰でも威儀を正して楽しく、活き活きと働けるのであった。

〈つづく〉

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