乳房のひととせ 下巻
中井常次郎(弁常居士)著
◇7 随行記 大正9年7月27日~8月24日〈つづき〉
(五)安居〈つづき〉
○八日に弟が東京から遊びに来た。自分は彼を上人の御前へ連れて行って挨拶をさせた。弟が頭を上げたのに、上人はまだお上げにならぬ。彼はきまり悪そうにしていた。自分も勿体ない事だと思った。上人は初対面の人に対して、よくこの様になさる事があった。礼儀は斯くすべきものだと御身を以て教えられたのであろう。又、私共が争いやいたずらなどするのを見られても、だまっておられる事が多かった。良くない事やまちがいを申し上げても、頭からしかったり否定されず「それでも宜しい」といわれた。それで私共は、この「でも」を頂けば「いけない」のだと心得ていた。
上人は初めての人には実に丁寧であった。そして信者は皆、上人様をわが親の如く思い、有難く、慕わしく、尊く感じ、お弟子の末席に加えられると、そろそろ鍛えられ初める。少しでも、おしかりを頂けるようになればしめたものである。
上人は、弟の為に一時間半ばかりも御法話をして下さった。自分は側で拝聴したのであるが、筆記せざりし故、今は何も記憶に残っていない。惜しい事である。
九日に土地の某家から招かれた。その家は、無量光寺の開山、一遍上人のお供をして、四国からこの地へ来られた土着の旧家だそうである。私共は上人様のお供をして八人連で出かけた。(上人、千葉、岩品、松井、徳永、谷、中井、弟の信隆)
しばらく仏間でお念仏を申した。それから上段の客間へ案内され、そこで一同お茶を頂き、夕食の供養を受けた。食後、主人の案内で相模川の高台へ行き、景色を観賞した。雨が降り初めたから名残を惜んで帰路に就いた。
弟は二晩泊り十日の朝、東京へ帰った。松井君は皆の買物がてら知人を訪ねるために東京へ同行した。小林先生は北海道の友人の処へ遊びに行くとて、三人が連れて立った。自分は村はずれまで見送った。
十三日に弟から上人へ海苔を贈って来た。上人は有難い説法をお手紙にして遣られた。弟はそれを巻物に表装し、今は家宝としている。
○或朝、本堂でお念仏の時、いつもの通り弁信坊は金ダライを伏せたような大きな伏鐘をガンガン叩いた。耳が痛いほど響く。谷君は一心不乱に急拍子で木魚を打つ。松井君は谷の狂態を制しようとして、大木魚のバイを両手で握り、力を込めてわざと緩く叩く。二人は意地の張り合いをして、互に譲らなかった。念仏三昧にならぬ。これは、いかぬ。今に上人様から何とかいわれるに違いないと思い、自分は本堂から逃げ出し、庫裏のお内仏の前で念仏を申していた。
本堂の鐘も木魚もピタット止んだ。果して彼等は上人からお目玉を頂戴したのであった。惜しい事には、その時どんなお説教が有ったか、私は聞かなかった。
○弁栄上人のお弟子は大底その名の上に「弁」の字を頂いている。弁誡、弁成、弁信、弁道等。これら数あるお弟子のうちで、自分が知っている最年少者は弁道君であった。彼は二、三日姿を見せぬ事があった。親許へ帰っていたのである。彼は里から一匹の小犬を連れて来た。そして毎日小犬と仲良く遊んでいた。
或日の夕方、雨がひどく降り、広いお庭が池のようになった。私共は、いつもの如くお上人様と共に食事を済ませ、座を立とうとしていた時、給仕の弁道君を見付けた子犬は、ドシャ降りの庭を横切り、縁側に飛び上るや否やブルブルと身振いして弁道君目懸けて突進して来た。
私は上人と列んでいたから、犬の狼藉を初めから見ていた。「コン畜生、知らぬ事とはいえ、上人様の御前を泥足で汚すとは、用捨ならぬ」と、今にも立って、けとばしてやろうと思ったその時、上人は御手をさし出し、三間ばかり先に立ち停った子犬に向かい、いとやさしく「コイコイコイ」と呼ばれた。
機先を制せられた自分は、上人の御意を得たワン公に頭が上がらず、犬と同僚の想いがして、上人のお慈悲を有難く思った。
○或日の夕方であった。上人は書院で手紙をお書きになっていた。一匹の蚊が上人のおつむのてっぺんに留まり、血を一杯吸っていた。私は、それを叩きたく思ったが留まり所が悪い。惜しい事だと見ていた。上人様は左手の掌をおつむにつけて、前の方から、しづしづと後方へすべらされた。血を満喫した蚊は重そうに飛び去った。運の良い奴だ。
あとで上人様は仰せられた「蚊を叩き殺すと針が残って、いけない。そろっと追えば針を抜いて逃げる」
〈つづく〉