光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.71 乳房のひととせ 下巻 7 随行記

乳房のひととせ 下巻

中井常次郎(弁常居士)著

◇7 随行記 大正9年7月27日~8月24日〈つづき〉

(五)安居〈つづき〉

○食後の散歩。夕食後、上人は「散歩しましょう」と仰った。私共は喜々としてお供をした。庭の彼方、亀形の池を越えて森に入った。上人は先頭に立たれ、その次に弁常、それから若い人達が続いた。池に架けられた土橋を渡る。橋のたもとに七尺ばかりの杉の樹がある。その枯枝に念珠を懸け「弁常上人数珠掛けの杉」と叫べば、一同はドッと笑う。上人も微笑された。それから二十余年は過ぎた。今なお、かの杉の樹は健在なりや否や。
 森の散歩を終えて本堂の焼跡へ出た。今の本堂はその側に建てられた仮堂である。元の建築は随分立派であったらしく、数々の大きな礎石が昔のままに遺されてある。私はその台石の一つの上に立ち、右手を高く空に上げ、左手を下げて印を結び、来迎仏を気取れば、松井君はその前で大声を張り上げ「南無阿弥陀仏」と大真面目に五体投地の礼拝を初めた。
 上人はあとを振り向き、ほほ笑まれつつお室の方へ御足を運ばれた。
○開かずの阿弥陀仏。七日の朝、講義の後、いつもの如く、二階で仏画の作業が始まった。皆お手伝いをした。自分も暫くその仲間入りをしたが、下手をしては返って御迷惑をかけると思い、お手伝いには気乗りせぬまま、一つ自分で三昧仏を描いて見ようと思った。
 沢山ある見本の中から半紙半分位の三昧仏が見つかった。早速、絵絹の小片を撰んで写し始めた。上人のお許を乞わずに「親の物は子の物だ。上人は我が魂の親だもの、一々お断りするにも及ぶまい」と独り決めして絵具も金泥も勝手に使った。千葉氏はお衣の模様を描いて下さった。出来上ったから、ピンで柱に止め、それを眺めた。どうも思わしくない。悲しそうなお顔をして御座る。
 上人はお立ちになった序にそれを御覧なさった。何とも仰っしゃらなかった。好ましい出来では無かったが、折角の処女作だから、だまって持ち帰る事にした。その後京都の表具屋で、金欄の表装をさせたが、まだ一度もお祠りした事がない。「開かずの阿弥陀様」と称し、巻いたまま、今に蔵ってある。時が来るまで開かぬ。
 松井君は画や音楽に理解あり、手も動くからよくお手伝いをした。随行を終え、上人から頂いた墨絵の小さい三昧仏(それは弁常自作のと同型のもの)を表具に遣った処「これは立派だ。品位の高い仏様だ。是非譲って頂きたい」と所望された。勿論、松井君は手離さなかった。
 京都で留守居をしていた私の妻も、上人様からの贈物だといって、徳永さんを通して、御直筆の扇子や、黒地に金泥でお歌を書いたリボンのしおりなどを頂戴した。勿論徳永さんも数々の書画を頂いて帰ったと思う。而して自分だけ、何も頂かなかった事は、帰京後まで知らなかった。自分は焼けたり、ちびれたりするような物は、さほど結構とは思っていなかった。けれどもお手伝いをせずに、勝手な事をした誡めに、無言の説法を頂いたのだと恐縮した。それから二十余年の後、初めて知ったのであるが、徳永さんが、上人様へ御随行をお願いした手紙の御返事に「この夏中、当麻山で仏画を描こうと思う。その手伝いをする気ならば随行してもよい」とのお示しが有ったという事を「めぐみ」誌上で知った。もし当時、右の御意を聞いていたならば、自分も晴々と毎日熱心にお手伝いして汗を流させて頂いたものを。残念でもあり、相済まぬ事であったと思う。
 先日久しぶりにあかずの阿弥陀さまを開いて見た。思ったほどでもない。そのうち拝ませて頂けると思う。

〈つづく〉

  • おしらせ

  • 更新履歴

  •