乳房のひととせ 下巻27
中井常次郎(弁常居士)著
◇8 聞き書き 其の十(つづき)
当麻山無量光寺にて
八月四日よりの十二光仏講義
清浄光 五根浄化
人は先天的にも、後天的にも、感覚に汚れを持つ。経に「五欲の恐るべきは、大火を捨ておくよりも甚だし」とある。罪悪は多く肉欲より起こる。それ故に五欲を五塵とも五賊ともいう。
習慣 → 必需 → 病的 → 悪弊症
これらの悪弊症を除くには、それに代わる良きものを与えるがよい。一心に念仏すれば、生まれつきの汚れが除かれて、自然に善い性が現れて来る。
五根の過失即ち感覚欲を除くは消極的であり、八面玲瓏(はちめんれいろう)、六根清浄となすは積極的である。
人間――肉眼、肉耳、肉鼻、肉舌、肉身
天人――天眼、天耳、天鼻、天舌、天身
菩薩――法眼、法耳、法鼻、法舌、法身
二乗――慧眼、慧耳、慧鼻、慧舌、慧身
仏陀――仏眼、仏耳、仏鼻、仏舌、仏身
肉眼乃ない至し肉身は機械的にできている。天眼乃至天身は人間でも修行して天眼を得れば、神通感応して、肉眼を用いずして、現世界の事がわかる。慧眼乃至慧身は超感覚的である。我等も心を静め、五根の働きを止めて観念すれば、宇宙と一体となり、無の世界となる。感覚は無くなり、ただ、智慧のみあって、真空真如を証得する。身は世界なり、世界は身なりと証さとる。これが二乗の証さとりの極である。法眼乃至法身―超感覚の中に勝妙の五妙境界を感じる。肉眼なくば、肉体見えざる如く、法眼開けずば、法身が見えない。我等、もし法眼開くれば、肉身を持ちながら、浄土の荘厳を観見する事ができる。仏眼乃至仏身―仏眼は慧眼と法眼とを合わせ働く故に一毛もう端たんに無量の世界を見る。
肉の六根に対して六境あり、六根、六境を十二入にゅうという。これに六識を加えて十八界という。肉眼清浄となれば、十八界清浄となる。
歓喜光 感情的信仰
宗教の中心真髄は感情にあり。この光は、消極的には一切の憂悲苦悩を除く。天然の人は幸福主義顛てん倒どうせる故に、苦を感ずる事が多い。たとえ理論に明るく、如来の実在を証明し得ても、感情的信仰に入らずば、活きた信仰という事ができない。如来を謗そ しられる時は、三百の矛ほこを以て刺される思い〔を〕する如きは、感情的信仰である。人は誰でも、今は苦しいけれども、先になれば、楽しみがあろうとの望みを持っている。けれども、先へ行っても同じ事である。人生は肉の幸福を求める為でない。
- 人の四顛倒想
- ―身は不浄なるに、浄と思う。
感覚(受)は苦なるに、楽と思う。心は無常なるに、常住不変なりと思う。法は無我なるに、我(自由)と思う。
経に「人の身は不浄を包み、九つの孔より漏れる」とある。ベルグソン曰く「人の心は大なる速度にて変化する」と。これは実験心理学の証明する処である。法とは理法であって、人間の自由にならぬものである。人は天則によって縛られている。
この世は修行の道場なれば、苦しくとも、心を鍛錬せねばならぬ。心は変化すればこそ、向上するのである。
天然の人は世界観も顛てん倒どうしている。即ち此の世界は我等に幸福を与えるものであると思っている。けれども、事実はそうでない。如来に帰命すれば、永劫の安寧が得られる事を知らない。
(仏) (凡夫)
身―浄 不浄
受―楽 苦
心―常 無常
法―我 無我 - 入信の動機
- ―無常及び苦を厭いとい、或いは自己の罪悪に対する苦悶より信仰に入る。釈尊が道を求められた動機は、老病死を厭われた事である。キリストは罪悪より逃れんとして信仰に入った。
浄土教は娑婆を厭い、浄土を欣う。善導大師は「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫」といって救いを求められた。入信前に、己が罪悪を感じた者が、入信後いよいよあさましき我なる事を知り、これ位でよく済んでいる、どうしてこの恐るべき罪の身を救って頂けるかと、真剣に道を求めるようになる。
内に限りなき煩悩あり、外には様々な誘惑が待ち伏せている。煩悩の薪たきぎは高く積まれ、誘惑の烈火は我を取り囲んでいる。而して解脱の力なき己を見る時、如来に対して感情的に救いを求めるようになる。
感情の信仰は帰命、融合、安住と進む。 - 一、帰命(感情)
- ―此の時代の信仰は如来を彼方に見る。如来を絶大なる威力者と見て熱烈に救いを求めるが、我が心は果たして如来に通っているや否やと気き遣づかう。己が身命を献げて如来にすがる心相である。
- 二、融合(心情)
- ―信仰が次第に進み、如来と自分とが融け合おうた心相である。三昧現前し、慈悲の面影を拝み、心が如来の中に融け込む。神秘融合。真言宗では三密加持、入我我入という。神秘の霊感は、外から伺う事ができない。その人の心の中に立ち入らねば味わう事ができない。この時、如来はわがもの。我は如来のものという満足を感ずる。好きな人と結婚したいという心は、感情的信仰に似ている。而して思い通りになり、夫婦同棲し平和な生活をしている有様が、融合の信仰に当たる。融合の心情は、深き淵に魚の住む姿に似ている。
〈つづく〉