乳房のひととせ 下巻30
中井常次郎(弁常居士)著
◇8 聞き書き 其の十(つづき)
当麻山無量光寺にて
八月四日よりの十二光仏講義
理想が我欲や名利にある間は、情操卑し。人により、意向即ち心の向け方が違う。情操が中心となって、意志が外に動き出すのである。信仰に入れば情操は変わって来る。入信前は不定意向であって、因縁により、三善三悪となる。たとえ善を為すとも、その動機は六道を出でぬ。人生の目的は、生死の夢から醒めて、大般涅槃を証するにあり、との大自覚無き故に、十二因縁により六道に流転する外ない。
積極的方面 ― 弥陀の本願―至心信楽欲生(ししんしんぎょうよくしょう)
回向発願心とは、欲生の心である。霊に活きたいというは、至心信楽である。真宗では回向を、如来より我々に下さる事としている。我等は、こちらの煩悩心を如来の方へ振り向ける事を回向という。即ち回向とは意向である、としている。今までは、何事も人生を自覚せずに為ていたが、如来を大み親と信じてからは、み親の許に帰りたいという心から、一切の行動をその方に向ける。これが回向である。発願とは、極楽に生まれたいとの希望である。この徹底した希望により、一日一夜の間に起こす八億四千の念々は皆、最高目的に向けられる。
如来の本願による回向を菩提心という。
- 菩提心
- 願作仏心(がんさぶっしん) ― 親の如く円満になりたい。
願度生心(がんどしょうしん) ― 一切衆生を救うために仏に成りたい。
これが入信後の人生観である。最も遠大なる希望である。この願いを起こして念仏すればよい。この願いは菩薩の人格を造る中心となる。これが仏子の自覚であって、動物我に生きる者の知らざる心境である。
執意的 ― 柿の実が風雨にあうても枝を離れず、しっかりと取り着く如くに、人もまた、他人の仕向けに心を止めず、一心不乱に念仏すれば、次第に円満なる人と成る。
作仏心の道徳 ― 慈悲、歓喜、正義、安忍等。
今までは、善を行うて仏に成ると思いしも、善を為す心全体を如来に振り向けること、時々行う善の代わりに、心全体を作仏心として終う事が、大自覚の回向心である。
自分が気をつけて心を正しくするのでなく、如来を信楽する事により、光明を蒙り、明るく歩めるのである。本能的の悪は罪にならぬけれども、悪い習慣を造らぬように気をつけねばならぬ。
仏道から見れば、日本国民は、まだ子供である。それに、宗教家という、褓母〔ほうぼ・生まれたばかりの赤児を抱く母〕をつけねばならぬ。その褓母が居眠りをしている間に、子がいたずらをして、人を傷つけ、道具を壊し、自分がけがをしたとて、子を罰するのは不都合である。子供は善悪を知らずしてするのである。
国民が罪を犯し、苦しむは、褓母たる宗教家の責任である。
宗教倫理
- 総論 信仰生活の三階
- 一、難思光 ― 喚起位(四念処(しねんじょ)、四神足(しじんそく)、四正勤(ししょうごん)、五根、五力)信仰の種蒔き。経験なき故に難思光。
二、無称光 ― 開発位(七覚支)信仰の花開く。実感は説明できぬ故に無称光。
三、超日月光 ― 体現位(八聖道)信仰の実を結ぶ。心の内を照らす如来の光明は月日の光に超えて貴き故に超日月光。
信仰に入って悦びを覚え、意志が強くなり、人格が円満になるなどは、宗教心理に属する事である。行は意志の現れである。知り、行い度くとも、意志が動かぬ時は行為とはならぬ。
難思光
- 信仰喚起の因縁
- 因とは生まれながらにして持つもの。縁とは外より助けるものである。性因とは本性の心地、土地の心を詳しくいえば、土は総、地は土地のあるもの。
植物は土地に生える如く、宗教は人の心という心田地に育つ。通じていえば、一切衆生は皆悉く仏性(心田地)を持っている。別していえば、宗教に向くものと、向かぬものとがある。宗教に向くは、宿因や遺伝による。
種因に人天、二乗、菩薩、仏乗等あり。心田地は法身より受け、名号は報身より受ける。名体不離であるが、こちらの見方によって大差がある。同じく名号を称えても、信仰に応じた仏しか拝む事ができない。
真宗は信心を正因とし、浄土宗は念仏を正因とする。宗教心理よりいえば、信心正因という方が良い。信仰の階級よりいえば、念仏正因の方が良い。念仏によって信が獲られ、信によって念が起こる。信を養うものは念仏である。
内に因あるも、外から助ける縁なくば、信仰は育たぬ。即ち縁として遠くは如来の恩寵、近くは師友の保護がいる。お釈迦様は「我法を説くは、月を指すが如し」といわれた。
喚起位を資料位ともいう。衆生は皆、心田地を持っているけれども、種のよく育つのと、育ち難いのとがある。石地の如く、信仰の育ちにくい心田地を一闡提(いっせんだい)という。これは宗教に向かぬ。
〈つづく〉