光明の生活を伝えつなごう

聖者の偉業

聖者の俤 No.85 乳房のひととせ 下巻33 聞き書き 其の十一

乳房のひととせ 下巻32

中井常次郎(弁常居士)著

◇9 聞き書き 其の十一(つづき)

大正九年八月十八日~二十四日信州唐沢山阿弥陀寺別時説教

 吾々は法身仏から仏性を頂いて来ているけれども、放任しておけば育たぬ。弥陀の四十八願は報身の光明により仏性を育てる法則を説いている。これにより親子対面の望みが叶えられるのである。
 衆生の為に、安心のできる幸福者にしてやりたいというのが如来の本願である。人はこの世で生きている間だけでは、完全円満に仏性を育て上げる事ができないから、浄土へ連れて行き、そこで完成されるのである。
 輪廻―私共が前世で、犬であったとするも、今、犬のものを一つも持って来ていない。犬の耳では人間生活に具合が悪い。目も口も手足も毛も心も、犬のものを持って来ず、人として生まれている。皆元に返して、新しく生まれる。人の身も時が来れば土に返す。極楽に生まれると、法身(肉身と異る自由無礙の身)という菩薩の身が与えられる。この世の持ち物は、一つとして来生の役に立つ物は無い。けれども、ただ一つ変わらぬものがある。仏性の本体が変わらない。これが変われば、自分が救われた事にならぬ。
 第十八願は人が今、この世で生きている間に具えておかねばならぬ心の道具立てを教えた願である。学んだ学問も、一切の持ち物も皆捨てて行く。如来と親子の因縁を結ぶのは第十八願である。
 草木でも芽生えて大きくなり、実を結べば茎や幹は枯れる。結果は原因となり、原因は結果となって常にこれを繰り返す。人の身も、時が来れば枯れるが、アラヤに結んだ実は色々に変化する。即ち六道に輪廻したり、仏界に生まれる。仏性という心田地に仏種を蒔き、それを育てると仏子となる。形に現れるのは来世であるが、実を結ぶのは今である。これが第十八願の心である。されば今、花を咲かせ、実を結ばせておかねばならぬ。
 阿弥陀仏の威神、光明の事をよく聞き、自分の心と仏とを、しっかり結び付け、小我を捨て、みむねを己が心として進むのである。
 信――信ずる故に仏心入り来る。
 愛――感情の信仰。
 欲――永劫の大目的に向かって憧るる姿。
 人生の価値は円満な人格として実を結ぶところにある。これが第十八願の心である。
 安心とは心の据え方をいう。安心を心得て信仰すれば、それに報いて助けて下さるのが報身如来である。報身仏の智慧と光明を受けると信仰が活きて来る。如来の心をソックリ受けるのが信である。至誠心をもって受ける。儒教ではこの至誠心を道心(天より受けた心)という。
 「誠」に消極と積極とある。うそ無きは消極的であって、悪くは無いが、それだけではねうちが無い。誠に内容がなければならぬ。動物は己を保護するためにうそをするけれども、本能的であって、意識してするのではない。人がそれを見てうそと思うのである。だから彼等は人目を憚らぬ。即ち動物にはうそが無い。人は是非をわきまえ、人目を憚り、うそをする。動物と聖人とにうそが無い。
 積極的至誠―至心に信じ、至心に愛し、至心に欲望す。我が身と心との総てを捧げて如来に打ち任せると、如来の誠を受ける。信が感情的になると愛になる。ここで如来と自分の心とが融け合う。これを融化という。如来に慈悲化される。自分も成仏したいという欲望が起こる。念仏は人格を円満にする為に勤めるのである。
 阿弥陀さまは我等の大み親である事を聞き、念々仏おもいの心になれば、心田地に仏種が蒔かれたのである。信心が芽生えると、如来の実在を疑わぬようになる。けれども、まだお姿が見えぬ。それから信根がでる。如来を求める心が強くなり、お話だけでは満足できなくなる。信仰が芽生え、愛になれば、心の花が咲く

空海の心の中に咲く花は
弥陀より外に知る人ぞなき

 如来の光明を蒙り、信仰が益々育てられると、往生の資格が成就する。即ち信心の実が結ぶ。これを業事成弁という。

(四)信機、信法

 機とは自分の事である。如来の救いを受くべき我なる事を信ずるのが信機である。機械は色々の働きをする。我々は宗教上の働きをなすべき機械である。菩薩は万善万行をなし得る機械である。しかるに我等はこの機械を使いそこなっている。それ故に善導大師は自分を反省すれば、実に「罪悪生死の凡夫である」といわれた。我等は自分を知らぬ。一寸先は闇である。毎日三賊五欲の手先となり罪を造っている。貪瞋は成仏の縁にならぬ。自分を善人と思う者は、仏を頼む心を持たぬ。うっかりすると、この肉体を養う事で一生を空しく過ごし、折角人と生まれて成さねばならぬ大切な事を知らずに死ぬ。
 禅宗では「我等は無明を父とし、煩悩を母として生まれた。その生まれぬ前を悟れ」という。ダルマの如く考えても生まれぬ前の事は知れず、悟らんとすれば、生まれて後の事ばかりが思い出される。
 心なくば、苦も無く恐れも無い。動物は人間ほど取り越し苦労せぬ。人知の進むに連れて、苦労が多くなる。人は生まれながらに罪を持ち、罪を犯す性を持つ故に、捨て置けば罪人になる。犬が噛みつくから悪い動物だといってはならぬ。犬は噛みつく悪い性分を持っているから噛みつくのである。それは元来悪い事をするものである。

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