乳房のひととせ 下巻40
中井常次郎(弁常居士)著
◇十二 十月の別時
〔大正九年〕十月十六日より二十日まで、京都の知恩院山内、勢至堂で五日間の別時念仏三昧会が開かれた。
九月三十日に、上人は山陰地方へ伝道に赴かれるとて京都を通られた。自分は松井君と京都駅で上人を迎送した、蚊野仙次郎氏は二条駅から随行した。帰京後、蚊野氏は上人を非凡な方だと感じた事に就いて、こんな話をした。上人は、どうして私の前半生を御存知であったか。車中、上人は私に「そういう場合、アメリカではユウシイというでしょう」と仰った、その時、蚊野さんはドキッとしたという事である。
著者でさえこの時まで、懇意な蚊野さんが、若い時にアメリカで働いた事が有ったとは知らなかった。
十月十五日、上人をお迎えする為に自分は二条駅へ行った。まだ誰も来ていなかった。御着車の時刻が近づき、信者は次第に集まった。
汽車は着いた。上人は現れた。一同は供をして恒村医院に落ち着いた。直ちに二階の仏間で半時ばかり共にお念仏を申した。それからお話があった。
十六日、三昧会が始まった。この日、大学は遠足日であった。それで自分は終日別時に就く事ができた。
十七日に父、上京。母は知恩院山内で泊り込みで別時に就いた。母が歩行不自由のため女中を附添いにともなった。
十八日、今日も学校を休んで知恩院へ行った。咋日は母が、今日は父が、上人に初対面を許された。
真宗の忠実なる信者としての父が、他宗の本山で木魚時雨の中において終日、念仏申し説教を聴聞し、上人に対して帰依心を深め得た事はまことに幸である。しかるに兄は幾度かの招きにも応せず、自宗の砦に立籠り、とうとう御縁を結んで頂けなかった。上人の遷化に遇いて後悔し、墓前に陳謝し、山下現有上人に拝謁し、御自筆のお名号を頂き、せめてもの思い遣りとした。
上人は父の参詣をお悦び下され、長々と御法話をして下さった。
日中は勢至堂で念仏三昧が勤修され、夜は下の雪香殿で『礼拝儀』を称え、お念仏を申し、お説教を聞き、聖歌を歌った。自分は、いつも第一線に席を占めて木魚を打ち、ペンを走らせたのであった。
この日、夕食後、夜のお勤めの始まる前、雪香殿の控室で、籠島咲子夫人のお話を初めて承った。わが為にはその後、聖母として信仰をお育て下さった越後柏崎町極楽寺の咲子夫人を初めて見た記念すべき日である。奥様は良く太り、どっしりと落ちつきのある方で、お浄土の荘厳に就いて、三昧中の実感を語られた。多くの人々と共に、自分はお話を聞いた。夫人は右手を挙げて、「ここに仏様がいらして、今、私の言葉に間違いの無い事を保証していて下さるから、私はどなたの前でも安心してお話ができます」といわれた。
少しの飾り気も無いその真実なる言葉と態度に感激した自分は、涙止まらず、合掌平伏した。この有様を見て側の人達も涙を流してお話を拝聴した。自分はこのお話を聞き、己が懈怠を戒め、精進してお上人様の慈恩に応えねばならぬと励まされた。
十九日に初めて梅子が知恩院へ来て、上人様に挨拶を申し上げ葡萄を供養した。よろこび召し上られた。女中が帰郷した為、家事に追われ今日まで登山できなかったのである。けれども隣の市川さんは嵯峨から親戚の娘を呼び寄せ、手伝わせて下さったので留守居を頼んできたのである。
二十日の正午に別時が終った。一同御廟と大殿に参拝し、お別れとなった。その夜、私共は上人を京都駅にお見送り申した。桑田上人は、満願の日に雨降るは神仏の感応があったのだろうといって喜ばれた。平三郎は上人のお供をして東京へ帰った。
この別時に開係の無い事であるが、弁栄上人へ武者小路実篤氏を紹介しようとした一件を記しておこう。
別時の終った翌日即ち十月二十一日の夜、学生集合所で武者小路氏の新しい村に就いての講演が有った。全く立錐の余地なき聴衆で、廊下も窓も人で一杯で、床が落ちそうに思われた。
過ぎし五日間、知恩院で絶世の大徳、弁栄上人が人生の一大事に就いて獅子吼されたにも拘わらず、新聞はそれに就いて一行の記事も載せず、書いたとて大衆には猫に小判、何の反響も無かったであろう。しかるに取るに足らぬ新しき村の失敗談を聞こうとして、物好きにも集ったりこの群集。あさましく、あきれ果てたる世相を見た。
武者小路氏は貴族の出であるだけに、まじめで、かけひきが無い。その雄弁ならざる有りのままを語るもどかしさが反って同情を呼び起こした。
日向の山奥で、のんびりと大自然を友として暮らそうとした新しい村の人達が、おのおの燃ゆる理想を胸にひめて諸方から集った事であろう。されど高き理想実現の為に如何なる苦労も厭わぬという献身奉仕の心からでなく、気楽気儘にして見たいという物好きから出発した無宗教者の集まりで有ったらしい彼等は、自我の衝突より幻滅の悲哀を招いたものと思う。
氏は理想実現の困難を語り、誰でも良い事を教えて下さるならば御指導を仰ぎたい。己が全生命を献げて実行する積りであると謙譲に決心の程を告白した。
(つづく)