乳房のひととせ 下巻43
中井常次郎(弁常居士)著
◇十三 聞き書き 其の十二〔つづき〕
十月十六日~二十日
知恩院勢至堂別時会説教
(八)阿弥陀仏と心を西に空蝉の
もぬけ果てたる声ぞ涼しき(法然上人)
一心を通せば、愚者でも終には目的を達する事ができる。凡夫が聖人に成る。これは凡夫の力でなく如来の御力による。一心一向に念仏すれば、如来は光明を放って、私共の真正面にいて下さる。絵像を懸けるのは、心をまとめる為である。
(九)仏心円満、背相なし
人に感情が無いならば、心配は無い筈である。動物は先の事がわからぬ故に取越し苦労せず発狂もせぬ。自殺せず、罪を造る事も無い。人間は先が幾分わかる故に悩み、罪をもつくる。しかし有難い事には、病あれば薬が有る。凡夫の心は汚れているから、これを浄める為に如来の清浄光がある。我等の心は闇き故に如来の智慧光がある。かくの如く自分の汚れ、悩み、罪を感ずるならば念仏して、それらを除かねばならぬ。
栗の実は未熟の間は渋くて食べられぬ。いががあり、手の付けようが無いけれども、熟すれば実は自ら飛び出て来る。未熟の実を蒔けば腐る。
説教に二通りある。我々の罪や汚れをいって責めるのと、教え導くのとの二通りある。我等は地獄必定の凡夫なれば、如来を頼め、というのと、如来の光明を仰いで発育を願え、と教えるのと二通りある。
感情的信仰――我等は肉体のみを愛して、罪を造る不幸な者であった。その愛に、動物的なのと理性的なのとある。わが子なるが故に、わが妻なるが故に愛するは動物的である。真理を愛し、博愛仁慈にして国を愛し、仁を為して身を殺す如きは理性的である。霊性は如来を愛す。宗教の中心真髄は感情にあって理にあらず。血の通う信仰は情にある。
執意的信仰の人は首を取られても如来を離れぬ。キリストは「神を信ずるとも、愛なくば、鳴る鐘の如く、味わい無し」と。また「山を移すほどの信ありとも、愛なくば何かせん」ともいった。信仰が深くなれば愛となる。信は水の如し。愛生ずれば甘くなる。如来は我等を救って下さるから愛するというのでは足らぬ。如来と共ならば、地獄に堕ちても厭わぬという程でなければならぬ。
愛は自然に生まれて来ない。育てねばならぬ。自分が育てた子と里子との間に、可愛さに違いがある。
宗教の終局目的は理屈を知る事でなくして、人格の完成にある。八万四千の仏の相好は、我等の感情的信仰を育てる為である。見仏は人格を高める。スマイルズの『品性論』に「人格の同化」という事が説かれてある。画も同様である。総てに超えて如来を愛する者には、苦が無い、その人は幸である。己を愛すれば、六道に輪廻し、如来を愛すれば、永生を得る。
浄土とは如来の霊徳の現れた処である。如来と共ならば、地獄も厭わぬという心ならば、地獄が極楽となる。如来の在す処は極楽であるからだ。
(十)阿弥陀仏と染むる心の色に出でば
秋の梢のたぐいならまし(法然上人)
飾りなく仏に帰命すれば、心は仏に染まる。仏を念ずれば光明を蒙むる。
徳本上人は「南無といえば心は如来へ行き、阿弥陀仏といえば仏は自分に帰る」といった。念仏すれば、自分の心が仏の心と取り替えられる。念仏を怠ると、地金が出る。けれども、つとめて念仏すれば、いつの間にか心は仏に染まって来る。自分勝手が無くなる。
自分の知識に頼らず、愚鈍になって、如来にたよりなされ。仏を離れると五塵六欲に染まる。この心が清浄光に育てられて、六根清浄となる。今までは物資より来る表面的の喜びで有ったが、今は称名より湧き出る尽きぬ悦びを感ずる。
如来を信ずるほど大なる力は無い。未だ悟らずとも、信ずる事により、悟れる者と等しい徳が得られる。人間道徳の善は、良き境遇の時に現れても、悪縁に遇えば悪となる。しかるに、如来と共なる心は、善のみにして悪が無い。
如来の光明には美化、楽化、霊化の力がある。
(十一)如来の光明
これに心光と色光との二つある。色光は肉眼に見えないが、法眼を開けば見える。今いう光明は色光で無くして、心を照らす心光の事である。太陽の光は形の上を照らし、弥陀の光明は心を照らす。われらの心霊を永遠に活かすのは弥陀の光明である。
如来に智慧、慈悲、霊化の三光明あり。智慧なき人は道を知らぬ。智慧光は人の心を明るくする。慈悲の光は人の心を温かくし、霊化の光は悪心を善化する。一心に念仏すれば如来の光明に触れる。正見の人は人の見ると見ざるとに拘わらず、正しく行う。
念仏に請求、感謝、咨嗟の三通りある。
正義の脚が弱いと最後まで正義を通す事ができない。
愛に痴愛と智愛とある。痴愛は目先きの愛で、智愛は真の愛である。
念仏に救我と度我との二義あり。
(つづく)