光明の生活を伝えつなごう

他場所だより

他場所 平成22年12月

山崎弁栄展と記念シンポジウム

佐々木 有一

一、

10月30日、待望のシンポジウムが岐阜の地で開催された。季節はずれの台風14号の接近が心配されたが、幸い会場の長良川河畔をかすめることもなくまずますの好天であった。

シンポジウムのテーマは「宗教の彼方、新たなる地平」であったが、大きな印象は霊性をめぐっての討論が掘り下げられたという点である。霊性といえば鈴木大拙の『日本的霊性』がしばしば想起され言及されるが、弁栄聖者はその半世紀近くも前に、霊の字を多様な概念当てはめて縦横に論じておられ、自己の教学の中核に据えておられた。この点を、豊富な例を挙げながら河波上首は説明された。対論者の若松英輔氏はみずからカトリックの教徒であると明かしたうえで、霊性とはそもそもキリスト教では神のことであり、この点弁栄聖者も同じ立場に立っておられるとの理解を示し、かつ霊や霊性のことばを使いながら、いかがわしさを全く排除し、「正統的な、清潔な」用法で教学をい建立したと高く評価していた。因みに若松氏は昭和43年生まれ、慶應の仏文を出て、ベビー用品のピジョン株式会社に勤め、若くして子会社を任されたのち、今はハーブサプリメントの会社を経営している人である。その傍ら『三田文学』などに哲学や宗教、とりわけイスラム哲学などの専門的な評論を寄稿している少壮異色の文芸評論家である。

二、

会場は長良川の右岸、かつて博覧会の為に開かれた地域の一角にある文化ホールである。

参会者は約80名、東海三県を始め、東京、千葉、京都、大坂、和歌山など多方面からの出席者がつめかけた。会場からの質問や提言をうけて論を進めるという運営スタイルが、シンポジウムらしい実をあげたと考えられる。それだけに話題が多岐に亘り、たとえば久松真一氏をめぐって禅の話が出たり、イスラム神秘主義にまで及んだりして、まことに多宗教、多文化の学際的モザイクを味わう好個の機会となった。河波上首の光明主義や仏教全般、対論者のカトリックとイスラム研究の背景、司会者も禅者久松教授の令孫定昭氏など、登壇者の顔ぶれだけでも、まさに多彩絢爛たるものがあった。一面からいえばまことに「公開」された催しであり、河波上首がいつもお説きになるように光明主義が「開かれた」法門であることを文字通り体現するものであった。要するに「マルチでオープンなシンポジウム」が成功裡に実現したのである。

三、

弁栄聖者の書画展と記念シンポジウムがここ岐阜の地で開かれたことは、実現してみるといかにもそのような因縁が存したことが納得される。とくに書画展は歴史的にも大きな意義を我々に悟らせてくれる価値があった。

弁栄聖者の『無量寿尊光明歎徳文及要解』なる文書が印行されたのは明治35年、聖者44歳の時で、これが光明法門としての最初の出版物とされている。これに先立って明治31年頃から駿遠三(駿河・遠江・三河)、尾張、美濃、伊勢などいわゆる中部地方のご巡錫が多くみられ、アコーディオンを弾きながら児童を引率されたのもこの地方であった。(このアコーディオンが展示会場に出品されていた)明治33年には三河路をご巡錫中肺炎を患われ、前年に開山をつとめられた新川の法城寺で静養された。ご病中とはいえここで小閑を得られた聖者の中で、新しい法門への胎動が始まったようである。「歎徳章」の書写、十二光図その他光明教学の柱となる重要な施策の崩芽や草稿が、この展示会に出品されており、拝観する者におのずからひとしおの感慨を与えてくれる。病の小康を得て五香の善光寺に帰寺された後、あらかじめ用意させた棺桶の中で30日の念仏三昧の修行をされた有名なエピソードもこの年のことであったと思い合わされる。『日本の光』にも「(明治)34、5年ごろ大に感ずる処ありて、伝道の余暇、浄土教の哲学的方面を研究することにつとめて、大に得るところありたり」と記されている。さらに展示された仏画のうち頭部に肉髻珠をいただく阿弥陀仏が多いことも印象深い。彫刻でも絵画でも総じて現存の阿弥陀仏の中で肉髻珠のあるものは珍しいのである。聖者の場合も比較的初期の作品には多いときいていたが、ここでは9体中6体までに朱色の肉髻珠が書き込まれているのは大変珍しいといえるであろう。頭頂の肉髻の正面中央下に朱に彩色された部分であり、額にある白毫と共に光を放つといわれる。

四、

図録に寄せられた論文もまことに有益、蒙を啓いてくれるものばかりである。河波上首が巻頭に「山崎弁栄上人―その生涯と宗教芸術」を寄せ、また巻末にも「禅と浄土、その対立を超えて、新しい大乗仏教の地平」を載せて首尾をきっちりと締めておられる。久松真一記念館も展示会場の一つであったが、聖者の真筆に加えて禅者久松教授やその師西田幾多郎博士の遺墨などが展示されていた。世は対極とみるような禅と浄の実践がもともと双修のものではなく一つであるということを具体的に渾然融和したような情景であり、おのずから人の心を打つものがある。「禅と浄土」の論稿がそのことをはっきりと教えてくれる。対論者の若松氏も「山崎弁栄―近代はなぜ『霊性』を必要としたのか」を寄せ、お二人でシンポジウムの骨格を提唱しておられる。このほかに湯谷祐三氏(名古屋大学博士課程満期退学、浄土宗西山深草派宗学研究員、愛知県立大学非常勤講師)の「山崎弁栄の念仏思想私感」、齋藤乗願師(大正大学卒、法城寺住職)の「弁栄上人と法城寺」の二篇がある。とくに後者は聖者ご巡錫のありさまを髣髴させる類のない文章であり、加えて聖者の書簡や草稿の翻刻・解説も貴重である。

さて最後に二点、若松氏が発言の中で「弁栄聖者のような日本の誇るべき思想家が、今日あたかも埋もれて忘れられたかのような状況になっていることはまことに不思議だし、かつ残念なことだ」と洩らしていただ、われら聖者を師父と仰ぐ末輩としてやはり慚愧にたえざるところというほかない。

いま一つは書画展と図録は岐阜市・長良川画廊の岡田晋氏の尽力による。とくに記して謝意を表したい。

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