名古屋・西蓮寺会場
内藤 規利子
西蓮寺は銀杏が黄葉し、山茶花が咲いていました。12月2日、弁栄聖者ご祥当別時を大田敬光上人様ご指導で開催。ご法話の一部です。
(まず、弁栄聖者ご略伝とお慈悲のたよりをお読み下さいました)
弁栄聖者は、お念仏がいかに中味が本当に大切かを教えて下さっている。
ナムは真心を込めて「それはその通りと思います。あぁそういうことで、ありがとうございます」と心からの願いであるとともに、自分の心を全開してその通りと向こうからの教えをいただきます。という気持ち。
ナムという言葉はものすごく深い。アナタを全面的に信頼していますよということ。いい加減に考えていてはいけない。帰命とは命を返すとか命の拠り所に戻るということ。命を投げ出してもいいという気持ち。ナムアミダ仏とはアミダ様にそういう気持ちでおりますという表明です。
「私の命」というけれども、私の命ではない。親から一応もらっているけれども、親も又命をいただいている。その一部を私がいただいている。命は自分が死んだら天地にお返しする。そう思っていれば気が楽である。
いただいた命は、いつお返ししても文句は言えない。それを自分の命としていただき、何十年も生活できている。体のあちこちが故障もするし、多少の病気もあるでしょう。それでも、ありがたいことにここまで来れた・・・と思うと「ありがとう!」という気持ちになる。誰に(お礼を)言うか・・・。その時に「南無阿弥陀仏」をいうしかない。
計算できない大きな命をいただけた。ブツとは悟ったということ、分からせていただいたということ。アミダは計算できないということ。何が計算できないか?私を生かして下さっている何か大きなもの。一言では言えない、いろんなものがあるから・・・。空気・太陽がなかったなら、その他諸々がなかったなら、私たちは生きられない。とてもありがたいことである。
この頃は命が軽視されている。命が大事だなぁと思う気持ちが大事。仏様の命をいただかなくては、私の命は意味がないようなもの。仏様の命をお迎えするという「至心に勧請す」というのはそういうこと。仏の命・永遠の命のナムアミダ仏のアミダ様をいただいて初めて生きる値打ち、目的も分かる。だから自分の命を大事にしましょう。
子供や孫を「そういう気持ちを少しでも受け継いで、しっかりして生きなさいよ」という気持ちで育てれば、一日一日の子供の育ちが楽しみになってくる。そういう子に大いなるものをちゃんと教えたならどんないい子になってくれるかなと楽しんで育てることができる。
我々の命が大事ということは、仏様の命をいただくということで、私の命は保たれている。私の命、永遠の命というものをいただける私にさせていただかなけれな、私達も自分の命を粗末にしているのではないかなぁということまで本当は考えなけれないけない。
どんなことでも本気でお念仏しながらやって下さい。そのうち生き方が変わる。愉快になる。ありがたくなる。お念仏を本気で称えて下さい。