名古屋・西蓮寺会場
内藤 規利子
西蓮寺の木々は新緑になっていてトゲの無いサボテンが・・・。若奥様にこのサボテンは元々トゲが無かったのですか、と伺うと、年をとったせいじゃないですか?これできれいな花が咲いたんですよ。へぇー。サボテンでも年をとるとトゲがとれて丸くなることがあるんだ、人間と同じなんだ!
と、感心してしまった私でした。
7月20日、大田敬光上人様ご指導で例会。弁栄聖者のお慈悲のたよりを訳しながらお読み下さいました。
お慈悲のたより 八十一
天に太陽は照っていて下さる。この大いなる力の光によらなければ、この肉体は活きることが叶わぬものです。人の頭の中心の宮殿にある心霊(一番深い心のもとの仏心)は、無量光如来に依らなければ生きることはできない。それならば、どうしたら我等の心霊は如来の光明を受けさせて頂くことができるか。ただ真心をもって「南無阿弥陀仏」とお称えして御仏の御心の現われを求める。そうなると如来の心は我等の心を育てて下さる。
今あなたが至心に念ずる時、大ミオヤの如来は現にあなたの真正面に慈悲の面を向けて下さっておられる。-ということを思い出しましょう。
真心を持って念仏する時、あなたの信じる心の鏡がお念仏することによって明らかに磨けるので、現にアミダ様のおいでになることが明らかに信じられます。是非とも心に念仏して信心の鏡を磨いて下さい。
ご法話
真心を持って深い心でおまいりする時は、仏様がなおいっそう大きな御心で私達を包んで下さる。仏様のことを思ってナムアミダブツとお称えすると、仏様はそれ以上に私達を深く思って下さるんだよ・・・ということが自分でも受け取れる。初めのうちはアミダ様どうぞよろしくお願いしますというような気持ちでお念仏を称えていても、真心で称え深い心になっていくとそんな自分だけをよろしくというようなことではなくなる。大きな世界に生かされて有難いなぁと仏様と一つになったような気持ちで南無阿弥陀仏という呼び声でいると仏様と心が一つになる。それを念仏の念という。
大悲召喚の御声は有難いことです。声になって人間は初めて救われてくる。人間のことは声で分からせてもらえる。自分の声で呼び掛けて皆んなが分かってくれる。人の出す声は深い意味がある。『南無阿弥陀仏」は言葉の中の言葉、お経の中の一番大事な最高峰の言葉。弁栄聖者の御教えで深いということが言葉の上からも分からせていただけるということになりました。よそ事を考えながらお念仏を称えているようではいけない。一心にお念仏を称えて自分の心に持っている鏡を磨いて下さい。
(私事)
小3と小1の孫娘は本堂にちょこんと座ってお念仏。妹はちゃんと座ってお念仏を称えているのに、お姉ちゃんは何が気になるのかキョロキョロ、モゾモゾ。「なんじゃこりゃ、お姉ちゃんなのになんたるこっちゃ!」と思いました。が、ハッと気がつきました。私がお念仏を称えている心の状態ではないかと・・・。木魚は打っているものの孫たちの心はどこをさまよっているのか。気を付けてお念仏を称えようとしみじみ反省しました。
その日私宅に一泊。楽しく過ごしたようです。小3の孫娘が帰る前に御念仏すると言うので皆で一緒にしました。キョロキョロ、モゾモゾしていてはいけないと言われた孫はちゃんとやろうと決めたからと言って礼拝儀をあげ、お念仏中もきちんと三昧仏様をお見つめしていました、手にはいつの間にか万歩計を持って・・・。3686打ったと喜んでいました。このままお念仏の喜べる子に育ってほしいと念じました。