内藤 規利子
西蓮寺の庭はいよいよ木々の緑が深くまってお花の少ない時になってしまいましたが、その中で名前も知らない濃いピンクの花がとてもきれいでした。外の掲示板には、“だいじょうぶと、いつも心にほとけさま”の句が・・・・・
「こんなに暑い日の例会はちょっとないですね」と上人がおっしゃいましたが、暑い日の7月25日、大田敬光上人御指導で例会が開かれました。その御法話の一部です。弁栄聖者の「お慈悲のたより」に添いながらお話下さいました。
太陽の光によらなければ生き物というものは生きることができないであろう。人の心も無量光如来の光によらなければ本当に生きることはできない。木魚がたたくとは言わず打つという。木魚を打つと音で心が目覚めることがある。無量光如来の光明にふれることもできると弁栄聖者はおっしゃっている。仏の智恵の光で自分でもあるであろう智恵が出ていないころもある。その智恵に磨きをかけていただく。どうすれば私達の心は仏様の光明を受けることができるだろうか。それは真心で「南無阿弥陀仏」と仏様のお名前をお呼びすることによってできる。仏様には「ナムアミダ仏、ナムアミダ仏」と呼びかける。弁栄聖者はただアミダ様と呼ぶのももったいないと大ミオヤよ(私の大きな仏様よ)と言いかえていらっしゃる。真心で聖き御名(ナムアミダ仏)をお称えして仏様の心の表われを仰ぐところに如来の心は我らの心を育てて下さる。それを受けとるためにお念仏を称えるんですよ。南無阿弥陀仏の言葉を通して育てていただいている。それが弁栄聖者が「南無阿弥陀仏は大事なんですよ」とおっしゃる訳です。
今あなた方が真心をもって如来様を念ずる時に大ミオヤの如来様は現に真正面にましまして慈悲の面を注いであなたにお向かい下さる。仏像御絵像などでこっちを見ていて下さるということになると小さい子でもあの仏様がこっちを向いていて下さるなら悪いことができなんなということになるじゃないですか。弁栄聖者は信心を鏡のようにたとえて説いていらっしゃる。鏡を磨くことによって阿弥陀様があなたの所においでになるんですよ、と明らかに知ることになる。信ずると間違いないという心になれる。信ずるとは人偏に言と書く、信ということなどを言葉で表していくということが日本人には漢字で大事にされている。言葉は真心をそのまま言うということで、その人の人柄を表している。「あの人は間違いない人だ」とかになってくる。言葉だけ変な言葉を使っていて「あの人の真心が本当は外にあるんですよ」なっていうことはまずない。やっぱろ心は言葉で表れてくる。正しい言葉、正しい言い方をしなければいけない。仏様は今自分をちゃんと守っていて下さる。だから今の私がある。それ故病気をしても「心配はないよ」と仏様がおっしゃる以上「心配ないよ」ときっちり受け取った方がいいんじゃないかということですね。「南無阿弥陀仏」と心に磨きをかけて下さい。
若奥様のオルガンで「法然上人頌」と「仏はいつも柔かに」を皆でうたいました。
暑い日、孫娘達のピアノコンクールでデュオ(連弾)があるというので主人と出かけました。
「今年はデュオだけにした」と娘が言うだけあって会場にはドレスのお姫様?が大勢。黒の可愛いワンピースに娘手作りの首飾り、地味だけど「ばば馬鹿」でとてもかわいく見えました。
「おばあちゃん」と側に来た小3の孫娘に「頑張ってね。おばあちゃん応援しているからね。お念仏してから弾いた方がいいと思うよ」と言うと「そうしようと思ってる」と言う。「今のうちにしておいたら」と言うと「忘れると(仏様が)いけないから弾く前の休みの時するわ」と。小5の孫娘にも「頑張ってね。おばあちゃん応援しているからね」と言うと「何も言わないでプレッシャーになるから」と緊張している。私もそうかぁと思って黙りました。
弾き終わってから側に来た孫娘は二人とも「お念仏してから弾いたよ」と報告してくれました。ちゃんと心に入っているんだと嬉しくなりました。