光明の生活を伝えつなごう

中部支部だより

中部支部 平成23年6月

内藤 規利子

西蓮寺の門をくぐると木にピンクの花が・・・。「何これ!こんなの初めて見たよね」「はなみずき」「ひらどつつじ」大輪の真赤な「椿」「しゃくなげ」他にもいろんな花が咲いていました。部屋には立派なさつきの盆栽がとてもきれいでした。

4月24日、大田敬光上人様御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。『礼拝儀』と浄土宗のお経を皆でおあげしました。

弁栄聖者はお手紙で皆さんを励ましておられました。如来様をおまいりする人は、この世が終わって未来に仏様の所へお迎えいただけるということを作っておかないと不安でしょうがないから、如来様にお参りするという気持ちがそうかすると多くの人にあったのだと思うが、弁栄聖者はそれでは不十分である。死んでから先にお迎えいただける。如来様が守って下さるということであるなら生きている間は何に心の拠り所を持つのでしょうか? と皆さんに問い正したいようなお気持ちでお手紙を出されたのではないでしょうか。

私たちが生まれる前から生まれた今も亡くなってからも守っていただけるのが如来様。如来様はこの世が終わって未来にばかりお救い下さるというのではない。本来如来様は三身一体ということをしっかり受けとること。法身・報身・応身とうことを忘れてはならない。『礼拝儀』でも「法身報身応身の」とちゃんと称えるように皆様におすすめなさっている。いい加減に受け取っていると弁栄聖者のなさったことがはっきりしないのです。

如来様のお陰で生かされているのであるが、起こってくる不幸に押しつぶされてしまうような気持ちになることがあるが、天地万物があらゆる備えをもって我々を生かして下さっている。その目的は何のためであるかというと大ミオヤの御心に叶う人間にさせて下さるためである。そのために人間社会に難行苦行の修行をさせるために出して下さっている。人は苦しいこともあえて体験し、これを乗り越えなければ人間らしい人間にはなれないのではないか。苦労しているうちに親の恩も分かってくる。仏様の御恩が大きいものであっても、そこで始めからぬくぬくして楽しい、ありがたい、嬉しいことばかりでは本当にありがたいことは分からない。苦労して心のあらさびを取り除いて初めて仏様の深いお慈悲を感ずることになる。苦しいことも如来様からの試練を受け取らねばならない。お参りして「楽」「楽」「楽」と言っているだけではいけない。ひとつひとつ起こったことをいい加減に考えずに、それをどうやって受け取って乗り越えられる自分になるか、そこにお念仏の大事さが分かってくる。木魚を打ってお念仏するということが弁栄聖者の教えからいっても大事なことになっている。自分が修行するという気持ちを持っていないと乗り越えようとする気持ちがもうひとつ高いところへ行かない。むずかしいことではあるけれど、心をもうひとつ越えた所の心の芽を開いていかなければならない。最終的にはお念仏を称えるということを本気になってしなければ味わえないだろうということになってくる。

理屈を越えたところの南無阿弥陀仏を手がかりにして、心を育てていくことが必要。人間の一生は学校のようなもの、如来様からどんな試験が出されるか分からない。一人一人が答えを出せるような人になって下さい。今のようないろいろな災難が起こって、これから先どうなるだろうかというような時にこそ乗り越えて行って下さい。

若奥様のオルガンで「四弘誓願」「燈炬讃」「ほとけはつねに」を皆でうたいました

ここからは内藤のことです。

以前から知っていた方ですが私と同じ頃大病をしたことによって急に仲良しになった法友がおります。内藤さんが近くに住んでいてよかったと、何か事が起こると私宅へ話しにいらっしゃいます。大病をされたのにそれをマイナスにとらえず「病気をしてよかった!」「生かされているんですねよね」「ひかり誌も繰り返し読むようになった」「大病をしたけれど本当にいろいろなことが分かるようになってよかった!」等々お話しされました。お寺にもお参りされるようになり私はとても嬉しいです。これからも仲よく同じ道を精進しうていきたいと思っております。

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