西蓮寺例会
内藤規利子
西蓮寺にはコデマリ、赤白の椿、白と赤紫のヒラドツツジ、赤と白のハナミズキ、ツツジ、芍薬、山吹に似た黄色い花などが咲いていました。壁・畳・カーペットなどが新しくなりきれいになっていました。4月20日大田敬光上人御指導で例会が開かれました。御法話の一部です。
浄土宗のお経にあって礼拝儀に無いものがあり逆のこともある。弁栄聖者が浄土宗に育たれて礼拝儀を作られた訳をしっかり考えていくようなことをしてみたいと思います。浄土宗の方は時代が早い。お侍さんがおった頃からのお勤めの仕方がこれでまとまっている。弁栄聖者は幕末の黒船がやってくるような頃にお生まれになって新しいお経の礼拝儀をお作りになられた。両方の関係がよく分かっていないとどちらもこっちは知っていてもこっちは分からんとかそういうことになりますと誠に残念な感じがしますね。従来の浄土宗というものになぜ弁栄聖者が少し問題があるとお考えになったか分からないと浄土宗の人に会った時に光明会の人と話が通じないということになってしまうでしょうね。そういうことで一応浄土宗のお経本もお手元においてね。これは非常にお勤めとしてははっきり、きっちりした読み方がありまして漢字ばかりの中心のお勤めですけれど実にうまくこれは儀式をやる上で出来上がったものです。その中味になると礼拝儀が非常に深いところで求めておられることが分かる気が致しますね。浄土宗日常勤行式、とにかくこれに従って浄土宗では朝夕お勤めしていくことになっていますが、今の時代そんなことはなかなかできないけれど、たまにはこういうものを読んで下さると、はぁ昔の人はこういう読み方をしておったのか…と。一番始めに、
香 偈
願我身浄如香炉 願我心如智慧火
念念焚焼戒定香 供養十方三世仏
願わくは我が身の浄きこと香炉の如く 願わくは我が心智慧の火の如くにして 念々に戒と定の香を焚き 十方三世の仏に供養し奉らん
懺 悔 偈
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡
従身語意之所生 一切我今皆懺悔
大昔から心の中に憎しみのような何とも言いようのない困った三つの毒がぽっぽぽっぽと燃えている。三つの毒とは貪り、怒り、愚かさ、この毒を消し去らないことには本来の人間的なものにはならないのではないかと昔の人も考えていた。仏様の前に座って心から自分の愚かな浅はかな処は一切こういうことはいかんということを感じておりますのでどうか正しい仏様の本当のそういうお心を自分の心とすっかり入れ替えるような気持ちでおらしていただきますようによろしくお導き下さいという気持ちでおまいりさせていただくというのが懺悔を称える時の心ですよ。
十念
このお十念で心の誤った状態を阿弥陀様にお導きいただきたいということを願って、お念仏でこの間違いをぐっと押さえていただける。それでお経の所々に「十念」が入っている。お念仏がないと一瞬一瞬いろんな心が起こるけれども、これは間違いだったとすぐ気付かせていただくと南無阿弥陀仏で方向転換していく必要があるということで法然上人はお念仏は忘れなさんなよということになっているんですね。弁栄聖者もそういうことを十分に分かった上でお勤めの中のお言葉を分かりやすいお言葉でこういうことを心がけていかなければいけないよということでやっておられるんですね。礼拝儀は朝夕両方をお称えすることで一日のうちのそれぞれの時間の朝なさったことを夕方にちゃんと押さえて下さるとそういうお勤めになっている訳ですよ。
奥様のオルガンで「降誕讃歌」と「灯」を娘のピアノで「念仏七覚支」を皆でうたいました。
ここから内藤のことです。
四年程前、私が大病し通院治療していた時だと思いますが、地下鉄ホームで少し困っていらっしゃった白杖をついた方に「お手伝いしましょうか?」と声をかけますと「お願いします」と。肩をお貸しするといいと聞いていたのでそうしようと思ったら「腕を貸していただけますか?」とのことで御一緒しました。
階段で「ここに来たら教えて下さい」とおっしゃるのでそうしようと思ったのですがうっかり者の私には間違えてしまいそう…。平地階段、平地階段の繰り返しでやっと地上に出てほっとしました。盲導犬はお利口さんだなぁと盲導犬に敬意を表しました。運良く私の行く方向と同じ、次曲がる所も同じ。そのうち「ありがとうございました。ここでランチをしていきますから…」とお別れしましたが私ってまだ少しは人様のお役に立てることもあるんだ! とちょっと嬉しかったです。お念仏を称えながらまだ頑張っていこうと思いました。