光明の生活を伝えつなごう

関東支部だより

関東支部 平成24年1月

一行三昧の会

佐藤 蓮洋

◇日 時:11月6日(日)10時~16時
◇会 場:光明園
◇講 師:藤本 清孝 氏
◇参加者:12名

光明園の柿の実も色づいて、秋本番を感じさせる一日でした。

午前中はお念仏、『如来光明礼拝儀』を称え、午後はお念仏と藤本氏のお話がありました。

藤本氏は、「三昧発得」について主に次のようなお話をされました。

「今月号のひかりに、聖者の「人間界は(聖き御国に登るため)聖なる心を養う学校でありますぞ」(『啓示の恩寵』)との言葉が巻頭を飾っていました。宗教の本質は、心清らかに人を愛すること、人への奉仕、仏神に近づく、仏神を見ることにある。東西の宗教家に共通して光の体験や仏や浄土を拝する三昧発得の体験があります。

弁栄聖者は『宗祖の皮髄』の中で「三昧発得」の意義を明らかにされ、法然上人も「選択集」で、偏依善導一師の根拠、三昧発得の意義等に触れておられます。聖なる心を養われた法然上人や聖者の宗教体験の確認、霊的人格に結実した、三昧発得の境地は我々の所期とすべき大切な事柄であり、共々に光明の道に励んでまいりましょう」と結ばれました。

また、今回のお話は、法然上人の三昧発得について現在残されている3つの文献、拾遺黒谷上人語燈録巻上、西方指南抄中本、法然上人伝記『三昧発得記』(醍醐本)をA3の表にまとめ、文言等を具体的に比較検討しながら、若干の解説と私見を述べられました。

「三昧発得」という、大変興味深いお話を伺い、お念仏にも力が入りました。

第6回教学布教研修会

植西 武子

◇日 時:10月22日(土)~23日(日) 両日共10時~16時15分
◇会 場:光明園
◇講 師
 講義① 谷 慈義 氏
 講義② 布施 義高 氏
 講義③ 佐々木 有一 氏
 講義④ 伊藤 旭栄 氏
 講義⑤ 若松 英輔 氏
◇参加者:34名(男性26名・女性8名)

今年の研修会の特徴の一つは河波上首のご意向によって、光明主義以外の方からのお話も伺い、広い視野から光明主義を考え学習を深めると言う点があげられます。例えば講義②は法華宗のお話であり、講義⑤はキリスト教徒である若松英輔氏に弁栄聖者を語って頂くと言った非常にユニークな構成になっています。なお、今年は間際になって一部予定変更がありました。それは河波上首が体調を崩され、10月17日に急遽入院されました。そのため、講義③は河波上人が弁栄聖者の「本迹論」を講義下さることになっていました。そして日蓮宗の立場の布施義高上人と「本迹論」についての対談(佐々木有一氏が司会)が予定されていました。これが特徴の二つ目でしたが実施に至らなかったことは非常に残念でした。

開講式

田代直秀関東支部長の司会で式は定時に始まりました。今回の会の趣旨説明と一部の予定変更が告げられました。

講話

(概要のみ)

前述のような趣旨に則り、特に、講義②を担当下さった布施義高氏は日蓮宗の立場から、講義⑤を担当下さった若松英輔氏は敬虔なキリスト教徒でありながら、弁栄聖者の教えを深く信奉されております。以下、各氏のご講話のテーマと骨子のみ・・・

講義① 谷 慈義 氏 (明治大学大学院客員教授・公認会計士)
テーマ 高祖の皮髄 ─「弁栄上人の『宗祖の皮髄』との対比において」─

谷氏はA4版16枚から成る膨大な資料を準備して、宗祖(法然上人)と対比しながら高祖(善導大師)を中心に話すと前置きして、善導大師、法然上人、弁栄上人の流れを追いながら話を展開されました。特に前半は「皮髄」にフォーカス化し、『宗祖の皮髄』からの抜粋を示しながら、聖者の教えについて話されました。後半は自分の見解として、高祖の「皮髄」の視点を真、善、美に集約して話されました。(1)至誠心(懺悔心)の仏教を「真」、(2)仏凡親愛の仏教を「善」、(3)仏凡調和の仏教を「美」とし、「真」とは「誠」、「善」とは「愛情」、「美」とは「調和」と述べられました。
 その後、(1)「至誠心」(懺悔心)について多くの仏典から引用して解説されました。弁栄聖者の「至誠心」(懺悔心)についても話されました。更に(2)仏凡親愛の仏教についても、弁栄上人は勿論、他の上人方の見解についても述べられました。

講義② 布施 義高 氏 (法華宗持法寺住職・法華宗教学部長・立正大学研究員)
テーマ 日蓮教学における本迹論

布施上人もB4版9枚に及ぶ綿密な資料を準備され、非常に理論的にお話し下さいました。日蓮宗についてのお話しを聞くのが始めてでしたので非常に興味をもって拝聴しました。若さ溢れる情熱を持って、熱心にお話し下さいました。

最初に「本迹とは何か?」の定義をされました。この言葉はサンスクリットには無く、後に中国で用いられるようになった。本は物事の本体、迹は跡に通じるものである。何が「本」で何が「迹」か? これには二つの立場がある。
①仏身論から言えば「本仏」と「迹仏」で、中国では「本仏」は釈迦如来であり、日本の浄土宗では阿弥陀如来である。
②教判論から言えば(教相判釈)、二つの立場がある。即ち、「本迹一致」と「本迹勝劣」である。
次に『法華玄義』巻七上における「六重本迹」についても解説されました。
即ち、①理事本迹、②理教本迹、③教行本迹、④体用本迹、⑤ 実権本迹、⑥巳今本迹等について。続いて、中国原始天台における本迹の事判、事開、理解についても触れられました。これも仏身論、教判論の立場から説明されました。

非常に充実したお話で集中して拝聴しましたが、初めて聞く他宗のお話で予備知識と理解力不足のため、充分理解出来なかったことが悔やまれます。

講義③ 佐々木 有一 氏 (光明会関東支部副支部長)
テーマ 弁栄教学における本迹論

佐々木氏は急遽、河波上人の代行となり、準備期間がない中をA4版7枚の資料を準備して講話されました。その内容は光明大系『無量光寿』からの抜粋が中心でした。

特に「本迹一致章」(277-278,280-281頁)を読み、語句を解釈しながら重点的にお話しされました。その概要の一部です。

 大事因縁経(法華経)によれば、阿弥陀如来に本地垂迹の二身が在る。
 「本地身」とは無始無終の絶対無限の霊体であり、十方世界に?満(「遍」は一カ所のみ、「?」はあらゆる場所を意味する。)し、一切の有情を無上真実の道に安住させて下さる。
 「垂迹身」とは本有(在りどおし)法身より一切衆生を度せんがために迹をたれ給う。即ち、久遠劫に法蔵比丘となって現れ、無量の大願(48願)を成就して、安楽国に在して十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して下さるのである。
 また、『往生論註』によれば如来には二種の法身がある。一つは法性法身、二つは方便法身である。法性法身によって方便法身を生み、方便法身によって法性法身を出す。この二つの法身は異なっているが分けることが出来ないし、一つであるが同じではない。方便法身は迷界の衆生の摂取を誓って、衆生を本覚の世界に帰趣させるのである。

講義④ 伊藤 旭栄 氏  (光明学園相模原高等学校教諭)
テーマ 二祖上人と弁栄聖者

弁栄聖者の光明学園設立の目的は、世間の影響を受けやすい地元の青年子弟の健全な育成を願ってのことである。教育の目的の一つとして「人格の完成」を目指すとあるが、これは道徳だけで貫徹できない。ブルトマンは道徳と宗教の違いを植物に喩え、道徳は「切り花」であり、宗教はその「根」であると言っている。道徳はどこまでも自分の力で人格を向上せせていくとされるが、自分の力には限界がある。ここに宗教による自己変革が求められる。

テーマの「二祖上人と弁栄聖者」については……
 最初に二つのキーワードとして、①「聖浄兼学」と②「見仏」を示されました。

①「聖浄兼学」は『徹選択集』の中に記されている第二祖聖光上人の言葉であり、悟りを説く聖道門と救いを説く浄土門の両方を合わせ修めることである。聖光上人は元は天台宗の僧であったが、42歳の時、京都にて法然上人(72歳)に会い浄土宗に帰依する。その後、法然上人が説く口称念仏に批判的な声もあった。また、法然上人は「安心」については詳しく説かれたが「起行」に関しては聖光上人に委ねられた。これらのことが「聖浄兼学」を生む背景にあったと考えられる。更に、聖光上人は「聖浄兼学」にて念仏の位置づけを明確にされた。

②「見仏」については法然上人は念仏の心得として称名念仏を提唱された。この過程をその著『選択集』第16章で「三重の選択」として言及されている。即ち、まず浄土門を選び、次にその中の正行と雑行で正行を選び、更に正行の中の正定業と助業の中で正定業(=称名念仏)を選んだと。

法然上人の念仏を説明するのに「浄仏国土(自利)成就衆生(利他)」が良く用いられている。この「浄仏国土」こそ弁栄聖者の「不離仏・値遇仏」である。これが「念仏三昧」に通じるのである。

弁栄聖者は見仏による摂化を説かれた。この摂化が人格の向上へと繋がるのである。

講義⑤ 若松 英輔 氏 (慶応大学卒業・文芸評論家)
テーマ 山崎弁栄の「信仰」と哲学

若松英輔氏は『人生の帰趣』からいくつかの抜粋をA4版3枚にプリントした資料に基づいてお話しされました。若松氏は洗礼を受けたキリスト教徒でありながら、20代の前半に河波上首との出会いがあり、それ以来、弁栄聖者に傾倒されるようになったそうです。

まず、開口一番に「この偉大なる弁栄聖者の知名度が低いことが何よりも残念である。」と切り出されました。そして「日本に於ける近代の最も偉大な人物であり、鈴木大拙の存在も弁栄聖者があってこそ。」とも言われました。

それから『人生の帰趣』から抜粋した資料を読みながら、注釈や解説をされました。その二三の例として3頁の「不死なる霊」では我々の中に仏性があるのでなく、仏性の中に我々がある。花が存在するのでなく、存在が花を咲かせるのである。我々一般の認識とは「主客逆転」である。

また、53頁の「人生の意義」の「人生とはただ個人性のみにあらず、人類同一の本体を言う。」に関しては1920年没の人とは思えない、その先駆性に驚く。

110頁の「万物照応」の「水月感応の喩の如く人の心水澄む時は天の霊月感応す。」に関してはフランスの詩人ボードレーヌも同じ内容のことを言っている。実に宗教的深まりを感じる。

106、107頁の「一神」にある「超在一神的汎神教」について、全ての宗教を飲み込むものであり、仏教のみならず、宗教の根源まで見極めている。「十二光仏」はユダヤ教と全く同一である。この素晴らしい教えに巡り会えた我々は「原始光明主義の一期生である。」

292頁にある「葵心と愛慕」にある「~霊的の衝動なり」についてアリストテレスも同じことを言っている。宗教とはここまで到達すべきものである。

若松先生は講話の最後に「阿弥陀様への帰依を重視しながら、諸宗教を包括できるのは弁栄聖者を於いて他には考えられない。弁栄聖者の道を歩む人がもっと増えるべきだ。各自が自分自身の言葉で伝えることが大切である。宗教とはそれに縁のない人のために何を伝えるかである。念仏は自分自身のためと言うよりは他人のためにするのである。」と結ばれました。

質疑応答

 各講話の後に質問の機会が設定されました。又、最終日には茶話会の時間も含めて総括的な質疑応答の機会がありました。各自が自己紹介した後、多くの質問がありました。

まとめ

まず最初に、河波上首が直前に退院され、二日目から会場にお顔を見せて下さったことはとてもうれしいことでした。お上人のかねてからの念願が実現したからです。今回の研修会は光明主義以外の講師をお迎えして、多角的な視野からのお話を聞くことが出来、とても充実感に満たされました。特に布施上人、若松先生は40代の若さ溢れるエネルギーで、新しい息吹を感じさせられました。世相は急速に変転し、その流れに大衆は戸惑っている現状です。まさに、時代は40代を求めていると直感しました。光明主義の若きリーダーの育成こそ急務です。

そのための教学研修会は意義あるものと思います。今回5人の講師の方々は可成りの努力を重ねて講話下さいました。その労に対し、参加者全員、心から感謝しています。

只一つ、教学布教研修会の目的は何か? どんな布教師を目指すのか? と言う疑問が脳裏を掠めました。布教師は衆生済度を旨とするなら、自分の言葉で誰にでも分かり易く説くことが求められます。教義内容の研修と同時に、もう一方の如何に一般衆生を惹きつけるか、が課題だと思います。今回の参加者34名の中で女性参加者が8名の数字が何かを物語っていると思います。

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