平成三十年度近畿支部夏期別時会
佐野成昭
近畿支部主催の夏期別時念仏会が、7月21日(土)午後2時から24日(火)午前10時まで、三泊四日の日程で行われました。会場は法然上人ご誕生の聖地、岡山県久米南町の誕生寺です。今年は西日本豪雨で近くの電車が不通となり、バスを一部利用する人もいましたが、私達は自家用車に相乗りさせて頂きました。7月初旬の豪雨の後は猛暑で誕生寺は例年より暑く最高温度34度でした。しかし、冷房が壊れていて、お念仏と法話は、少し暑い中で行われました。夕食後は、急きょ別の東棟阿弥陀堂の8帖和室2室のふすまを外して16帖の冷房の中でお念仏しました。他の参拝客が来なかったのでその部屋は、お念仏には良い環境でした。例年他の参拝客をちらほら見かけるのですが今年は見ませんでした。参加者は全日参加、総勢九名と少数精鋭で恵まれ過ぎのお念仏が出来たように思えました。
なぜ恵まれ過ぎなのかと言うと、弁栄上人が、「おいしいものを食べていては別時にならん」と言い、暑い中で汗をかいて、粗食に耐えて別時念仏を行っています。当時はそうされていました。所が、現在はだんだんとおもてなし文化になり、良い部屋とおいしい食事になっています。日常と異なった厳しい環境にて別の時を持つ刺激から霊性は生まれ易いのでそのように実践すべきと思われます。
時間割
午後の念仏の間に二時半より川本剛空上人のご法話(後述)を二時間拝聴しました。四時半よりお念仏五時半より誕生寺用意のおいしい御馳走の夕食と入浴、八時より念仏、九時半就寝。二日目は五時起床、五時半よりお念仏、七時半より本殿参拝。お勤めの後、ご住職より誕生寺の由来についてお話を伺い、法然上人像と対面拝観させて頂きました。八時朝食後九時から朝の礼拝とお念仏。昼食の後、一時から途中休憩を挟んで五時半迄お念仏。夕食入浴の後、七時から九時迄夕の礼拝とお念仏。九時就寝。三日目起床は四時半、四日目四時。それに従って八時朝食迄のお念仏の時間は長くなりました。最終日は、朝のお念仏の後、ご回向、閉会式。本殿参拝後、清掃。八時朝食と茶話会でした。
今回日帰り念仏会しか経験のない女性1名が誕生寺別時に初参加され、「皆が姿勢よく辛抱強いのに感心しました。大変良い機会に巡り合えて良かった」との感想は、うれしい事でした、参加者全員がお念仏に長年慣れ、まじめな人が多いのでお念仏し易かったと思われます。このような御別時は一期一会でいつまで続くか分かりません。今回、古田上人が珍しい台湾製ノド漢方薬「八仙果」を持参し、参加者に下さいました。お陰で、念仏発声が良く出来ました。今年も予定通り無事御別時を達成出来、如来様、誕生寺様、古田上人と参加者に感謝したいと思いました。
茶話会で、「高年齢化で会員が大変減少しているが、その理由は、良い指導者がいないからではないか?」との質問に対し、「その通りで、力のある直弟子の笹本戒浄上人や田中木叉上人他が、全国を回って会員を増やして下さったが、現在は、そんな指導者はいない。しかし、やっと、批評家、若松英輔先生に見出されて光明主義の基本の書物、『人生の帰趣』が岩波文庫で今年出版出来ましたので、本の手段で光明会に入る人が、出て来るでしょう。現に今回、紀野一義先生の本から弁栄上人を知って、最近京都山科の月例念仏会に来た方が、初めてこの別時に全日参加されました」と主催者が答えました。
また、別の方は、「肩書き(地位・名誉)を重要視する指導者がいるが、ついて行こうと思わない」とのこと、最もな意見でした。尚、弁栄上人や高徳の直弟子のように「無私」でよく念仏しないと、地位欲が障害となって人を感化したり、法眼を開いたりすることが出来ないと思われます。学問も障害になり易く、無私で余程よく念仏すれば克服出来ると思われます。
「来年の百回忌の寄付金は、光明主義を広めるために使用すると『寄付願い』に書いてあったが、具体的に会員を増やす企画や手段があるのか?」との質問がありました。
それについては、弁栄上人の素晴らしさをよく知らない光明学園の生徒・PTA他に弁栄上人を見習えば、賢さも含めすべての面で向上することを示した『山崎弁栄絵物語』という絵伝の本を近畿支部が来年配布しますので、それで会員が増える手段になると思われます」と答えました。
昭和全盛期岡本薫校長先生時代は、会員が多く、「ひかり」誌を学校が千冊程購入してくれました。それが無いこともあり、現在千冊発行で大赤字であり、会員の寄付で補っても赤字であり、このままでは、何年後かに運営資金が無くなりつぶれるでしょう。
近畿支部も遠からず同じ運命ですので規模を小さくして継続出来るように改革しなければなりません。木叉上人が既にこの状態を分かっていて「細々として続けること」と予言していますので小規模を実施し、インターネットも活用して長く継続していきたいと思っています。
川本剛空上人ご法話 「無礙光」
この春近畿支部主催の教学兼生誕念仏会から始まった十二光のご法話に続いて今回は「無礙光」について川本剛空上人のご法話の概要を、筆者が次のように理解しました。今回『如来光明讃の頌』の資料が配布され、川本上人が書かれた「無礙光」の色紙を参加者は、頂きました。尚、〈 〉内は、筆者が補いました。
光明主義は、超在一神的汎神教で、浄土宗やキリスト教等の問題をスルッと抜けています。無礙光の特徴は、「衆生を解脱し自由とす」というように自由という問題が説かれていることです。〈解脱:煩悩の束縛から解き放たれて、自由の境地に到達すること。〉
自由が無かったら道徳は無い。道徳は自由がないと根拠が無い。自由は自我が無いと保証されない。自由とは、自発性があり、自分の意志がある。「私が」という主語があるのが西洋。日本は、主語を抜き、空所をもうける。
弁栄上人の自由は自発性の意志によるもので無い〈解脱し自由〉。カントは善いことをする心だけが善であると言う、結果がどうであれ。しかし、それは問題である。
「神聖」とは、道徳律を成り立たせている徳です。道徳の目的は、人格の完成であり、光明主義の目的〈円満な人格〉ですが、浄土宗の目的は、往生極楽です。人格完成は問いません。
僧侶の道徳は戒律です。例えば、殺すな・生かせの不殺生戒があります。〈弁栄上人はその五戒の中で「殺すなかれ己が霊格を」と語っていますが、これは最高の戒と筆者は思います。通常人格者は理性を問われ、霊性については問われませんが、全ての大元となる霊性をお念仏によって高めると霊格を得て、初めて道徳も自然に守れ、徳の高い円満な人格者と成ります〉。
浄土宗では、六波羅蜜を内容とする受戒があります。しかし、これは、お念仏を助ける助行であり、消極的扱いです。正行〈正しい行〉は、五種正行で特に称名正行を重要視する。浄土宗は大正二年に「布薩戒」は邪義だからとして禁止しました。このことにより僧が堕落しました〈大きな要因になっている〉。しかし、弁栄上人は、戒は重要だとして特に十二光の「無量光」以下の三光に取り入れていることは、注目すべきことです。
カトリックでは理性の真理と信仰の真理と、真理に二つあることが問題となっている。
理性では、因果律〈すべての事象は、必ずある原因によって起こり、原因なしには何ごとも起こらないという原理〉という理屈でものを考える。しかし、仏教では、縁によって物事は起こるという「縁起」で考える。例えば、木彫の仏像は、拝めば拝む程有難くなる。理性では、ただの木が有難くなるはずが無い。しかし、実際は、拝む度の縁によって有難くなる。
「神聖」については、弁栄上人は、「七仏通戒偈」で説いています。
諸悪莫作 ―悪いことはしません
衆善奉行 ―善いことをします
自浄其意 ―自分の心を浄めます
是諸仏教 ―これが諸仏の教えです
「…するなかれ」と誤訳している本が見られるが、正しくは、上のように主体的表現です。「意」は、「心」にすべきなのですが、なぜそうでないのか疑問が起こります。
「正義」とは、西洋の正義の解釈と異なり、本願力によって正しく成ることです。阿弥陀様が選善捨悪して下さることです〈長期視野で考えると、筆者はそうだと思い当たります〉。
「恩寵」とは、霊を育てること・霊育〈一声ごとに法乳を下さる〉・霊化のこと。そして、呼応があります。凧揚げの糸の引っ張りのように。霊が育つと人格の育成〈理性・天性も〉が起こり、人格完成する。弁栄上人の言う念仏をすればする程自然にそうなる〈光明主義は、霊性・理性・天性の円満な人格形成を目的としています〉。これは、浄土宗やキリスト教には無いことです。キリスト教では、懺悔という〈理性的〉方式で人間形成しています。
浄土宗・キリスト教〈一神論的な教え〉及び禅宗〈汎神教的な教え〉も含む光明主義が超在一神的汎神教であるという表現は、西洋人に分かり難いが、的確な表現です。
矢印の線は昇れば〈念仏する程〉、降りて来るもの〈お育ての用〉があるということです。