光明の生活を伝えつなごう

九州支部だより

九州支部 平成18年11月

聖者のご遺跡をたずねて~筑波山からご生家、そして東漸寺へ

日隈 敬慈

九光青年部では数年前より聖者の筑波山での三昧発得ご修行の地を訪ねたいとの願いがあった。この度ようやく気が熱し、図らずも聖者の筑波ご入山と時を同じくする8月末、すなわち8月28日、募集に応じ4名が北九州、大分、宮崎の各空港を発ち、羽田空港に集合した。空港からモノレールにて浜松町へ、JR浜松町から秋葉原へ、そして筑波エキスプレスにて筑波着。駅前のバスセンターよりバスにて筑波山を目指す。筑波山神社入口バス停に到着したのは午後2時。下車すると神職姿の筑波山神社権禰宜職・田所克敏師が車で迎えに来て下さっていた。

筑波山神社に到着するとさっそく拝殿にてお参り。ご本殿に今回の目的の成就、登山道中の無事を祈り、先達田所師をおつかわしくださったご配慮に感謝申し上げる。九州よりはるかに涼しく、神のお山の霊気につつまれる感がある。すぐに山頂を目指してケーブルカーに乗る。途中のトンネルを過ぎると一層涼しさが増す。

山頂到着。まず立身石をめざす。整備された山道が次第に細く険しくなる。田所師の先導で一列縦隊。細道を上り下りして立身石に到着。巨岩や木々に日光はさえぎられ、苔むした岩肌に湿気がいや増す。よくぞこのような場所で1ヶ月もご修行が続けられたものだ。「日本の光」には「蛇や猿が来て無心に戯れることもあった」ろ記してあるが、蚊やムカデの結縁も終始受けられたであろうに。

岩の前には三つの石碑が一列に立っている。右端が間宮林蔵樺太探検前の祈願の碑。まん中が親鸞上人餓鬼化導の跡の碑。そして左端に辯栄聖者念仏三昧発得之地の碑。「弥陀身心遍法界 衆生念佛佛還念 一心専念能所亡 果満覚王獨了々」の偈文が刻まれている。聖者のご修行を偲び、碑の前でしばしお念仏。どのようにしてこの重い石碑をここまで運んだのだろうと口々に言い合い次へ向かった。また細道を上り下りして御海の水に到着。1200年前に名僧、徳一大師によって発見されたと伝えられている霊水である。わずかに溜まった水を柄杓で汲んで喉を潤す。つかの間のリフレッシュ。また黙々と歩き女体山の頂上に立つ。岩の上に立って三方を見渡す。素晴らしい眺望である。足下には黄色と緑色に彩られた関東平野が。そのまん中を家並みにはさまれた一筋の参道が麓より前方に延びている。その先は遠く靄の中に融け入っている。ずっと眺めていたい「次行きましょうか」-田所師の声が現実に引き戻す。

北斗岩を目指す。もう足腰も肺も疲労が限界に近づいている。自然石の突き出た間を這うようにして上る。木の幹や小枝にすがるようにして下る。田所師のいでたちは白衣に薄浅黄色の袴、白足袋に白緒の雪駄ばきである。その神職姿の師が飛ぶように軽快に岩を乗り越え、崖っぷちの小道を小走りに下って行かれる。その後をスイカ頭の4人が置いていかれては大変と、ハーハー息急き切って追いすがる。北斗岩は高さ5、6メートルほどの縦長の岩が垂直に立っていて、その足元に小さな祠が祀ってある。「日本の光」に「立身岩の岩屋に1ヶ月籠もったのち、此の山には係が居って、もっと長く居るにはまた届けなおさねばならぬので他の場所にうつされた」とあり、(次の場所は北斗岩と傳ふる人あり確かならず)と補してある。

お念仏の後、田所師が「最終のケーブルカーには間に合うでしょうから、護摩壇岩にも行ってみましょうか」とおっしゃるので、そこへ向かった。細道からまたそれてずっと谷の方へ下って行くと川のせせらぎの音が聞こえてきた。そしてまた上ると岩屋が現れた。護摩壇岩である。岩の下に十分な空間がある。直立はできないが中腰でなら問題なく、床も平坦である。聖者は後の1ヶ月はここでご修行なさったのではなかろうかと一同憶測を述べ合った。お念仏の後また頂上まで戻るのである。疲労地理不案内のために方向の感覚も思考も半ば停止してしまった筆者は、この筑波山の地理を隅々まで熟知しておられる田所師に遅れないように、離れないようにと唯その一心で足を前に出した。

今振り返ると、それは我々がアミダさまのご本願に南無とすがり、お念仏を称えてアミダさまの摂取護念の中にお浄土へと人生を歩ませていただく姿と重なる思いがしてくるのである。その日は筑波山に一泊した。

翌29日はバスで土浦へ出て、電車にて我孫子駅着。やはり山を下ると暑い。駅よりタクシーにて手賀沼(沼といっても湖のように広い)に架かった橋を渡り鷲野谷に向かう。静かな緑に囲まれた集落である。薬師堂に着いた。樹木に囲まれた境内に初秋の日差しを受けて静かにたたずんでいる。屋根こそ手が加えられているが、建物そのものは聖者ご出家ご学道の頃のままではなかろうか。お宮殿の正面には聖者御作の三昧仏さまが掛けられ、その脇には聖者のお写真が飾られている。しばしお念仏する。

「日本の光」に「十五歳の頃からは(中略)雨の日仕事が休みの時は終日医王寺の薬師堂にこもって読書することもあった」とあり、また山本空外上人が著された「辯栄聖者の御生家を訪ふ」には「聖者御出家後の薬師堂に於ける御修行のことである。其れは明治19年の頃のことであった。(中略)其の時は二十一日間断食不臥の行をなされ、腕には香をたかれたやうである」と記してある。そこに聖者が読書をしておられたのだ。お念仏をしておられたのだ。時こそ隔ててはいるが、聖者と同じ場所にいることが、尊いとか有難いとかの言葉では表現できない、不思議さを感じさせられるのである。

聖者のお墓は薬師堂の裏手にあり、1坪程を方形に12本の石柱で囲い、中央に墓石が建つ。聖者の舎利が分骨されて納められているとのことである。一同しばしお念仏。薬師堂の樹木をはさんだ西隣が医王寺本堂である。この建物も瓦ぶきの屋根を除けば聖者ご在世当時のままなのであろう。聖者のご生家は医王寺より西へ徒歩で2、3分の所である。道より拝ませていただいた。その西隣にはお伝記のとおり真言宗善龍寺が現在も建っている。聖者12歳の折、空中に三尊の尊容儼臨し給うを想見せられたという杉林は確認できなかった。

さて我孫子駅より電車にて小金駅下車。地理不案内のためタクシーにて東漸寺へ。運転手の不興を買い、「駅から東漸寺までタクシーを使う者などおらん」と一言頂戴して到着する。師の大谷大康老師に「弁栄は寝ないのだろう」と言わしめるほど苦修錬行なされた寺である。ご本尊前にてしばしお念仏。来た時とは逆に長い参道を歩いて聖者のご遺跡東漸寺を後にした。

今回の筑波山の聖者ご修行地探訪の成就はひとえに田所師のお力添えとご親切のおかげである。そして医王寺副住職・八木英哉上人ご夫妻や東漸寺の奥さまにも温かいお心遣いを頂戴した。アミダさまや聖者の護念、そして聖者の不思議なご縁に連なる方々のおかげに心より感謝申し上げる次第である。

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