聖徳太子の念仏法語に、念仏は情に在りて理に在らず、〔譬えば〕風人の月花に我を抛ちて、万邪皆忘れて聖理にかかわらざるごとし。実に然かおもう。仮令いかほど理論の上に有神論が勝利を得、弥陀の実在の理論を巧妙に論ずるも、未だ真に信仰の真髄を得たりというべからず。若し夫れ自己の全生命を弥陀の中に献げたるのみにあらず、大慈悲の懐に融合して小我は融け込て、ただ自ずとかたじけなさになむあみだ仏なむあみだ仏と御名を称うる外なきにいたる処に、念仏三昧の妙趣感じらるべく候。
現代語訳
聖徳太子の念仏法語に、「念仏は感情であり、理論理屈ではありません。?〔世俗から離れ、自然に親しみながら詩歌や書画、茶の湯など〕風流に生きる人は、月や花を眺めるとき、自らをその月や花の中に没入していきます。〔そして、〕すべての邪な想念を忘れ、また聖なる道理も関係なく〔ただ、それを親しみ楽しむなどの情のみによって、そこに没入しているのです〕」実に〔念仏の道においても〕その通りであると思うのです。たとえ理論上、神が存在するという理論が勝利し、阿弥陀如来が実在する理論を上手に説明することができても、それは未だ真に信仰の真髄を得たとは言えません。そうではなく、自己の全生命を阿弥陀如来の中に献げるのみに止まらず、その大慈悲の懐に融合し、小我は融け込み、ただ自ずと、かたじけなさに「なむあみだ仏・なむあみだ仏」と御名を称える外にできることは他にないという心境に至ったならば、念仏三昧の言うに言われぬ信仰のあじわい(真髄)を感じることができるのです。解説
京都帝大の教授であった中井常次郎氏に宛てた書簡。理知的な中井氏に対して、弁栄上人は「弥陀の実在の理論」を丁寧に説かれました。その「理」を縁に中井氏は入信されましたが、弁栄上人にとって、その「理論」は、米粒名号や、仏画などと同様、如来さまと縁を結ぶ方便なのでしょう。そこに止まることなくその先の念仏実践へと促しておられます。出典
山崎弁栄上人『弁栄 上人書簡集』「二二六」六〇七 頁もしくは、『御慈悲のたより』 上巻「二三四」四一七頁より掲載
機関誌ひかり第707号- 編集室より
- 行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
- 現代語訳の凡例
- 文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
- 付記
- タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」