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発熱の文

発熱の文 70 清浄光 その二


『法華経』に「六根清浄なる時は十方一切の色声香味触法として悉く微妙至美ならざるはなし」と説けり。自己の主観の美化を求めず、単に客観の浄土を求むるが如きは甚だ仏教の意にあらず。如来清浄光にて衆生の心霊を化するが故に、其美化する感性を以て観ずる時は、境として悉く清浄ならざるはなし。自己の主観の美化するが如来の清浄光の功能なり。現に美化する時は現に六根清浄を感じ、後、此肉身を脱する時は純粋清浄国土を感ずべし。宇宙本如来霊界なるが故に本より清浄なり。但し衆生の感性の垢質脱するとき始めて洞然として十方悉く清浄微妙なりと感ぜん。また浄土の依正二報の美界を感ぜん。然る故に古人曰く「塵々極楽」と。この感性を化する処の性能を清浄光と名づく。


現代語訳

 『法華経』に「〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕の六根が清浄であるときは、すべての〔見えるものの〕色、〔音の〕声、〔匂いの〕香、〔味わいの〕味、〔触感の〕触、〔思考の〕法が、悉く美しく妙でないものはない」と説かれています。自己の〔内なる〕主観の美化を求めることなく、ただ〔外に〕客観の浄土を求めていくことは、甚だ仏教の目指すところではありません。如来の清浄光によって、〔私たち〕衆生の心霊を霊化するからこそ、その美化していただいた感性によって〔客観の〕世界を観るときは、悉く清浄でないものはないのです。〔その〕自己の主観を美化して下さるのが、如来の清浄光の功能なのです。〔如来の光明によって〕実際に美化していただくときは、六根の清浄を感じ、その後、この肉身を脱するとき〔、つまり死後〕は、純粋なる清浄国土に〔至ることを〕感じることでしょう。宇宙は本来、如来の霊界であるから、本より清浄なのです。ただし、衆生の感性の〔煩悩である〕垢質を脱却するとき初めて、心が広々となり、静寂となり、すべてが悉く清浄で妙であると感じるのです。また浄土の如来や菩薩方、そしてその国土の美しい世界を感じるのです。そうであるからこそ、古人が、「〔この娑婆世界の〕塵までも極楽〔の荘厳〕である〔と観える〕」と〔言っているのです〕。この感性を霊化する性能を清浄光と名づけるのです。

解説

「塵々極楽」︱『浄土十疑論』に「聖凡一体にして、機感相応す。諸仏心内の衆生は塵塵極楽なり。衆生心中の浄土は、念念弥陀なり」とある。この「塵塵極楽」の語を引用しつつ、如来の清浄光に霊化されることによって、塵を含むすべてのものを「清浄微妙なり」と感じることができることを伝えている。

出典

『人生の帰趣』岩波文庫版二〇五頁

掲載

機関誌ひかり第771号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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