光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 66 安心と起行


あなたの安心は、かようでしょうか。
 あみだ如来よ。あなたの外に決して他の神や仏におまかせ申しませぬ。
 あなたの外に、私の大ミオヤは有りませぬ。
 あなたの外に、妾の*魂を御まかせ申す御方は有りません。
 あなたの外に、妾の胸の奥をうち明けて、御たのみ申す方は有りません。
 いかなる事情のもとにも、他の神や仏を御たのみ申しません。
というような、全幅をささげて如来に御まかせ申す。如来に対する真の信情の操が立ちませば、真の美しい安心である。
 如来様の御慈悲の面かげが、彷彿として眼前におもわれますか。夜のめざめの中にも、なさけ深きおやさまがしられませぬか。徳本行者が、
  あみだあみだと声するひとの 胸に仏のたえ間ない と。
  我がみほとけのじひの面 朝日の方に映ろいて 
  照るみすがたをおもほえば 霊感きわまりなかりけり


現代語訳

あなたの〔如来への〕安心、〔つまり信仰の心構え〕は、次のように定まっていますか。 阿弥陀如来よ。あなたの他に、決して他の神や仏におまかせ申すことはありません。
 あなたの他に、〔敬慕する〕私の大親様はいらっしゃいません。
 あなたの他に、私の霊性をお任せ申すお方はいらっしゃいません。
 あなたの他に、私の胸の奥を打ち明け、お頼み申す方はいらっしゃいません。
 いかなる事情があったとしても、他の神や仏を御たのみ申すことはありません。
以上のような、如来に全幅を捧げてお任せ申しあげるという、真剣な信仰と情操が定まっているのであれば、真の美しい安心といえます。
 如来のお慈悲の御顔が彷彿として眼前に念われていますか。夜や朝の目覚めの中にも、深い慈愛を注いでいらっしゃる親様を感じられていますか。
 〔江戸時代後期の念仏聖である〕の徳本行者の詠に、
 「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と称える人の胸の中には、常に如来が在す」と〔あります。また私、弁栄も次のように詠じました。〕
 我が如来のお慈悲の御顔は、〔輝く〕朝日の中にも彷彿としてお映り下さいます。 
 その照るお姿を念って〔南無阿弥陀仏と称えていると〕、極まりなき霊感が〔湧き出して参ります。〕

◆註記
「魂」―弁栄上人が在家の方に仏性や霊性を平易に伝えるとき「魂」の語を用いる場合がある。

解説

信仰の熱を起こす弁栄上人の御法語と現代語訳を掲載していきます。

出典

『御慈悲のたより』中巻「五三」、『ミオヤ二』「如来様を御仏壇の中におさめて置いて自分一人に成ってはいませんか」六三頁。高崎市桜井家宛の書簡。

掲載

機関誌ひかり第767号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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