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発熱の文

発熱の文 74 不断光


 意志を霊化し、聖道徳心を発し、無上道に進趣せしむるを不断光と名づく。
 意志は人の善悪の意向、また性格にすべての行為を指導する処の精神作用なり。人の天然的意志は、主我幸福主義、また世俗的情操にして名誉権威栄利を欲望する等、意志甚卑劣なり。如来の聖霊に化する時は、消極には従来の世俗的利己的の劣態罪悪の状態を脱却し、積極には聖霊同化の徳たる至善心、即ち菩提心となる。菩提心とは如来の一大心霊と聯絡する霊性にして、上は心霊益々進化して如来の聖性に霊化せんことを欲み、向下としては一切の人類を愛護して自己と同化せんことを望む。
 如来の霊に化する時は、一切衆生本同一理性なるを知るが故に、博く衆を愛すること自己と同じく、また如来の霊性に化せんとする時は、自己の性悪を憎悪して之を脱却せんことを望み、ますます向上進化の為に努力し、聖子たるの天職を尽さんが為には犠牲の精神を以て力行す。
 如来の霊性に霊化せんには須らく完徳の鑑たる釈尊に傚いて、即ち慈悲・温和・智慧・正義・堪忍・剛毅・謙遜・貞操・熱心等を体して自徳を荘厳す。しかしながら、是如来の霊たる常恒不断の霊光が内に在って意志を指導し良心を照して、而してここに客観的の言語動作に顕動するに至る。


現代語訳

 〔人の〕意志を霊的に育て、聖なる道徳心を起こさせ、〔悟りへと向かう〕無上の道を歩みたいとの心を起こさせる〔如来の力を〕不断光といいます。
 意志というのは、人の善悪によって志向する心でもあり、また、〔その人の〕性格と、すべての行為を指導する精神作用もあります。人の天然的(本能的)な意志は、主我幸福主義であり、また名誉・権威・栄利を欲望する世俗的情操は、甚だ卑しく劣った〔世俗的〕意志です。〔それに対して、〕如来の聖霊へと育てていただくと、消極的には、従来の世俗的・利己的なる劣悪な状態から脱却し、積極的には、聖霊と同化し、徳そのものである崇高な善心、すなわち菩提心となります。菩提心とは、如来の大いなる霊と連絡する霊性であり、上〔へと志向する心〕は、如来の聖なる性へと、さらにさらに育てていただきたいと欲し、下へと向かう〔心〕としては、すべての人類を愛護し、〔如来と連絡する〕自己と、同化させたいと望むのです。
 如来の霊と連絡するときは、すべての衆生と本来同一の理性〔による存在であると〕覚知するので、自己と同じように他者を博愛するようになります。また、自己の悪しき性を憎悪し、それを脱却したいと望みます。〔そして、〕ますます向上進化のために努力し、〔如来の〕聖なる子として、与えられた使命を尽くしたいと、〔自らを〕犠牲とする〔帰命の〕精神をもって力強く行動します。
 如来の霊的意志へとお育ていただくには、当然、完徳の鑑である釈尊を模範とし、慈悲・温和・智慧・正義・堪忍・剛毅・謙遜・貞操・熱心などの徳をもって自らを荘厳します。しかしながら、〔それは自らの力では不可能であり、〕如来が常に注いで下さる不断の霊光が、〔人の〕心の内で働き、その意志を指導し、良心を照らすのです。そして、〔内在するその徳が〕客観的に言語や動作となって顕れるに至るのです。

解説

今回は、『人生の帰趣』に掲載されている「不断光」についての箇所です。不断光とは、人の世俗的であり、本能的(天然)であり利己的であり、また罪悪の方面へと向かいやすい弱き意志を、神聖なる意志へと霊化する如来の力をいいます。
 その「霊化」において二種の意志、すなわち積極面と消極面の欲望(意志)が伝えられています。ちなみに、「欲望」それ自体は悪いものではありません。本文に「霊化せんことを欲み」、「同化せんことを望む」とある通りです。
 積極面は、釈尊に倣って、徳を備えたい、もしくは、「如来の大いなる霊と連絡」していたいという欲望をもって道を歩むべきこと。消極面は、自らの愚かな意志と徹底的に向き合うこと、もしくは、愚かな意志であることに気付かされ、これを大いに懺悔し、脱却したいという意志をもつこと。
 この二つの意志が「無上道に進趣」していく、原動力となります。

出典

『人生の帰趣』岩波版二〇九~二一〇頁

掲載

機関誌ひかり第775号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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