光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 69 清浄光 その一


 感覚を美化し八面玲瓏、感性清浄なるを清浄光と名づく。心理感覚作用は、人と外界との関係が生理的の感官たる視・聴・嗅・味・触に感覚する作用なり。人の天然的の感官は、見聞悉く心情を染汚するが故に、感覚客観を塵境と名づく。外物本浄穢なし。但、自己の感覚作用に感ずるのみ。然るに天然を超越して、霊に入って霊と交感するときは、感性美化するが故に、五官の感ずる処、一層清浄にして清浄皎潔なり。〔中略〕
 如来の清浄光によって交感し美化する時は、霊体発現し、天地一新、感性清浄なること、例えば瑠璃瓶に精金を盛る如く、六根清徹して十方に映現す。眼に衆色妙荘厳を感じ、耳に微妙の音声を感じ、鼻に至美の妙香を薫じ、舌に上妙の味を感じ、身に自然の妙触楽を感ず。感性清浄なるが故に見聞の境として微妙皎潔ならざる処なし。


現代語訳

〔私たちの〕感覚を美しく霊化させ、心の中が濁りなく透きとおり、感性を清浄に〔育む光を〕清浄光と名付けています。感覚作用というのは、人と外の世界との関係において、感覚器官〔である眼・耳・鼻・舌・身〕が、視・聴・嗅・味・触というように感覚する作用のことをいいます。人が生まれもった感覚器官は、見聞〔などによって〕悉く心情を汚染してしまうため、感覚器官の対象となる外の世界の事物を〔塵に汚れた不浄なところという意味で〕塵境と名づけるのです。〔ただし〕本来、外界の事物に、浄い穢いの区別はなく、ただ自己の感覚作用に〔よって、そのように〕感じてしまうのです。ですから、〔生まれ持った〕天然〔の感覚〕を超越して、霊的な世界に入り、霊〔である如来〕と感応道交するときは、感性が美しく霊化していくため、〔視・聴・嗅・味・触の〕五感が感覚する境界は、一層清浄となっていき、〔更には〕全く汚れのない透き徹った清らかなものとなるです。〔中略〕
 如来の清浄光によって感応道交し美しく霊化するときは、如来の霊的な本体が発現し、〔これまで見てきた〕外の世界が一新し、感性が清浄となるのです。それを例えるならば、〔透きとおった〕ガラスの瓶に純金を入れるようなものです。〔眼耳鼻舌身意の〕六根が〔ガラスの瓶のように〕清く透き徹るからこそ、すべての外の世界に〔その美しさが〕映し現れるのです。眼に様々な妙なる色の荘厳を感じ、耳に微妙の音声を感じ、鼻にこの上もない妙なる香りを感じ、舌にこの上もなき妙なる味を感じ、身に自然の妙なる触れる楽しみを感じるのです。感性が清浄となるからこそ、見聞する境界は、〔すべて〕麗しく清浄な処となるのです。

解説

念仏実践における四つの心の変化、もしくはお育てを「光化の心相」といいます。その一つ目である「清浄光」について伝える比較的平易な弁栄上人のご遺稿を選びました。
 光明主義の先達方や道の友がもらす心境の吐露を見聞すると、弁栄上人がここで伝える「天地一新」や、「微妙の音声」「妙香」などの清浄光の心相の実感を彼らも再現していることに驚きます。ただし、そこに「我得たり」と慢心を抱く「染汚」ではなく、その実感を通して、更に悦び勇んで実践し精進すする「清浄」な姿に心引かれます。

信仰の熱を起こす弁栄上人の御法語と現代語訳を掲載していきます。なお、なるべく初めての方にも、筆者の想いが伝わるよう、原文に忠実な直訳ではなく、そのニュアンスや文面の背景が伝わるよう、意訳的に現代語訳化しています。

出典

『人生の帰趣』岩波文庫版二〇四~二〇五頁

掲載

機関誌ひかり第769号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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