光明の生活を伝えつなごう

発熱の文

発熱の文 65 拍手の音


 禅の公案に「隻手の音を聞」と云うあり。禅は形式的の悟道なれば、自己の先天的の自性を開き、即ち無声の音を聞くに、無声の声を以て自性を見るの手段とす。
 禅には宗教的客体の神を立てず。自己の本来の自性顕れ来る処に見性成仏す。
 今、念仏門には、其れと反対に、我等が信仰の客体に阿弥陀仏を本尊として、之に帰命信順して、其双方の間に最も完全なる親密なる関係、即ち両方の合致した処に初めて宗教心が成り立つ。衆生心水浄む時は仏日の影、中に宿る。月は天に照して影、水に映ず。月、如何に皎々たるも、水無き時は影を現わし難く、また水は満つるも月なければ反映せず。衆生の信心と如来の恩寵の和合する処に感応道交し、此双方の関係は実に親密なるを要す。
 如来の大慈悲心と衆生心の和合する処に感応道交初めて真の宗教は成立つ。而して此双方の関係は恰も両手の相拍つ処に、拍手の音は聞ゆる如し。故に、自心が弥陀に合して感応道交の妙音を聞くことを得て始めて真実の信仰は得たるものとす。


現代語訳

 禅の公案に「片手の音を聞け」というものがある。禅は*形式的な悟りの道であり、自己が生まれながらにそなえている*自性を開き顕す〔道である〕。即ち「無声の〔片手の〕音を聞け」というのは、無声の声を聞くことによって、自性を開き顕す手段とするのである。
 禅は宗教的に*客体である神を立て〔信仰する〕ということをせず、自己本来の自性を顕し、悟りを得る〔法門である〕。
 念仏の法門は、それとは反対に、私たちの信仰の客体である阿弥陀仏を本尊として、これに帰命し、その導きに従う道である。仏と私たちの間に、最も完全にして親密な関係、即ち両方の和合したところに初めて宗教心が成り立つ。私たち衆生の心水が澄むとき、太陽のように輝く仏の光は、その中に宿る。月は天を照らし、その光は〔地上の〕水に映る。月が、いかに明々と輝いていたとしても、〔もし地上に〕水がなかったならば、光を現わすことは難しく、また水が〔地上に〕満ちていたとしても、月がなければ反映することができない。〔その水月の譬えのように〕私たちの信心と、如来の恩寵とが和合することによって感応道交し、この双方の関係は実に親密であることが重要である。
 仏の大慈悲の心と、私たちの心が和合するところに感応道交し、初めて真の宗教は成立する。そしてこの双方の関係は、恰も両手の拍手によって初めて、その音は響くようなものである。ゆえに、自らの心が阿弥陀仏と合し、感応道交の妙音を聞くことを得て初めて、真実の信仰を得たといえるのである。

◆註記
「形式的」―弁栄上人は「内容」や「宗教的(神仏を立て信仰する道)」の対となる語。真如の枠組み、もしくは神仏との関係における枠組みの意。三縁で言えば、親縁を「内容」といい、近縁を「形式的に如来心と衆生心との接近不可割の関係」という。
「自性」―それ自体の定まった本質、本性。宗教的表現である「仏性」の形式的表現。
「客体」―主体の対義語、行為や実践の対象となる客観的存在。

解説

信仰の熱を起こす弁栄上人の御法語と現代語訳を掲載していきます。

出典

『御慈悲のたより』下巻「四九」『ミオヤ一』「拍子の音を聞け」一〇六頁、『ミオヤ三』一四六頁、『炎王光』「拍子の音」二三六頁

掲載

機関誌ひかり第766号
編集室より
行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
現代語訳の凡例
文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
付記
タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」
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