至心に懺悔す
法身と智慧と解脱の 三徳を備え給う如来に告白し奉つる 自身は現に是れ罪悪の凡夫 心の至らざるよりして作す可らざる罪を造り 作すべき事を怠るの罪に陥いれり 是れ皆な自らの過なり 実に大いなる過りなることを感じて 至心に懺悔し奉つる 今より後は悔い改め邪悪を捨て正善に就かんことを誓い奉つる 願くは恩寵に依て再び過に陥ること無く正しき人と為さしめ給え
現代語訳
真実の心をもって〔如来さま〕に懺悔いたします。〔永遠不滅の本体である〕法身と〔すべてを如実に知る〕智慧と〔煩悩の束縛などなく自由自在である〕解脱、この三つの徳を備えていらっしゃる如来さまに告白いたします。私自身の〔心の様子や日々の生活の〕現実を〔見つめてみますと〕、罪と悪の凡夫〔なのです。〕至らない弱き心ですから、犯してはならない罪を作ってしまい、またすべき事を怠るという罪に陥ってしまいます。このような罪は全て、自らの過ちです。実に大いなる過ちであることを感じて、真実の心をもって懺悔いたします。今より後は、悔い改め、邪と悪を捨て、正と善の心でいられるように精進することをお誓いいたします。〔私が今、如来さまに〕お願い申し上げることは、恩寵によって、再び過ちに陥ることがないように、〔どうか〕正しき人へとお育てくださいませ。
解説
今月号は、『礼拝儀』「至心に懺悔す」の現代語試訳を作成しました。他の弁栄上人の御遺稿を参照し、〔 〕によって加筆しつつ作成しています。今後、より正確な現代語訳作成の叩き台となれば幸です。①懺悔―『光明の生活』改訂版二七二頁に「懺悔に我を捨て如来の光明界に化生する時は、心機一転して念々胸臆に熾然たる邪見の火は化して常に如来の清浄光裡に清涼の風そよぎて麗しき精神生活の人と成るをうべし。」と。仏を念じ、心から懺悔し、光明の生活に至れば、心機一転して清らかな風が心の中にそよぎ、麗しき精神生活の人と成らせていただけるのである。愚痴や悪口をいう時間は私達には微塵もなく、ただ如来様に懺悔してお育てを願うばかりである。
②三徳―「法身と智慧(般若)と解脱」の三徳とは『大般涅槃経』を出典とする涅槃(悟り)の徳のこと。弁栄上人の説く、十二光の中、仏身論の「無量光・無辺光・無礙光」の内容にその三徳は対応している。ここでは詳説を避け、平易にこの三徳を解説すると、「法身」は如来様の永遠不滅(無量)の本体、「智慧」はすべて(無辺)を如実に知る如来様の一切知、「解脱」は煩悩の束縛などなく自由自在(無礙)に司る一切能。この解脱の徳(無礙光)が衆生に及ぼす「神聖・正義・恩寵」(「至心に感謝す」の文)の三つもまた、三徳という。
③邪悪―『人生の帰趣』二一〇頁に「邪悪とは道徳に背反する性質にして無上道の客観的理性を顕わすに抵抗する状態なり。即ち殺、盗、婬妄、貪、戻、恚、恨、?、慢、妬、忌、また八邪〔という仏教の守護神が陥りやすい〕六弊〔慳貪(ものおしみすること)・破戒(戒を破ること)・瞋恚(怒ること)・懈怠(なまけること)・散乱(心が落ち着かないこと)・愚癡(無知なこと)〕等の所作を悪と名づく。自他の精神及び自体の生活に害をなすものなり。斯る情操と行為とは聖意に乖戻〔そむき逆らうこと〕するものとして排除せざるべからず。」と。
④善―『炎王光』一三一頁に「善とは人は悪素質垢を脱し充分に精神及び身体の諸能力を発展せしめ人類を悉く安寧ならしめんとの意志なり。人間最深の機能まで発展せしむる時は自己に安寧を得るのみならず他の関係も益々親密ならしめ人格としての円満なる精神生活を得らるるにあり。」と。善は外に向かう行為・意志とのみと思い違いしてしまいがちだが、その前に悪い習慣やくせを除き「精神及び身体の諸能力を発展」する、つまり、自らの身心を磨き慈しむことが先ず大切な善であると、弁栄上人は述べているのである。
出典
『礼拝儀』掲載
機関誌ひかり第715号- 編集室より
- 行者(この文を拝読する者)の発熱を促す経典や念仏者の法語をここで紹介していきます。日々、お念仏をお唱えする際に拝読し、信仰の熱を高めて頂けたらと存じます。
- 現代語訳の凡例
- 文体は「です、ます」調に統一し、〔 〕を用いて編者が文字を補いました。直訳ではなくなるべく平易な文になるように心懸けました。
- 付記
- タイトルの「発熱」は、次の善導大師の行状にも由来しています。「善導、堂に入りて則ち合掌胡跪し一心に念仏す。力竭きるに非ざれば休まず。乃ち寒冷に至るも亦た須くして汗を流す。この相状を以って至誠を表す。」